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2024年6月9日日曜日

Note でインドネシア映画について書いています

松井和久さん主宰のウェッブマガジン『よりどりインドネシア』上にて、インドネシア映画批評を連載中です。往復書簡という形で、インドネシアの過去現在未来を縦横無尽に語りつくす内容にすべく、日々精進しております。

https://note.com/matsui_glocal/membership/notes?hashtag=%E6%98%A0%E7%94%BB%E5%BE%80%E5%BE%A9%E6%9B%B8%E7%B0%A1 

今後バックナンバーも随時アップされていくと思いますので、ここ数年映像産業そのものが非常に勢いに乗っているインドネシア映画に興味関心をお持ちの方は購入していただければ幸いです。

2018年12月19日水曜日

映画評 Ayat-Ayat Cinta (愛の章句) 2008年3月9日のMIXI日記転載  

10年前のMIXI日記を転載。イスラーム(風味の)恋愛映画については、既に小池誠さんや山本博之さんが論じられている。日本や欧米の恋愛ものとは一味、いやだいぶ違うタッチを面白いと思えるかどうかが評価を左右すると思う。画像と主題歌は今回追加しました。







いまインドネシアで大ヒット中の映画『AYAT-AYAT CINTA』(愛の章)をかみさんと今日見てきました。いやはや、まず席を取るのが大変でした。実は昨晩、つまり土曜日の夜にシネコンヘ行ったら2スクリーンで満席だったので、今日はその雪辱戦。それでも、今日も2回目の上映はダメで夕方からの回となったのでした。ちなみにチケットは1人25000ルピア(約300円)こんなに凄いヒットは6年前の『ADA APA DENGAN CINTA?』(邦題「ビューティフル・デイズ」)以来ではないでしょうか。何しろメダンだけで半分近くのスクリーンをこの映画が占めています。クリスチャンと華人が多いメダンでこれだけ受けるというのも実に興味深いことで、見る前から期待が高まりました。

ストーリーはシネトロン(TVドラマ)でよくある男1人女2人の三角関係、あるいは「一夫多妻もの」なのですが、舞台をエジプトに設定したことがまちがいなく大ヒットの要因の一つでしょう。主人公ファリはイスラム世界の最高学府アルアズハル大学で学ぶインドネシア人留学生、ファリの下宿の隣人女性マリアはコプト教徒、ドイツ国籍を持ちファリとお見合い結婚するアイシャはベールで顔を隠す敬虔なムスリマという設定。なるほど、イスラム系日刊紙レパブリカに連載されていただけあって、その筋には受けそうなお話です。

とりたてて優れた演出があったわけではなく、大体ファリはそれほどハンサムでもなく(ニコラス・サプトラの方が10倍カッコイイ!)、しかも登場人物みんながインドネシア語を理解するのはヘンじゃないのなどとしょーもない突っ込みを入れたくなってしまう程度の出来でしたが、かと言って「金返せ!」と言いたくなるレベルでもありませんでした。まあ、この手の話ではお定まりのシーン、つまり「夫1人妻2人の夜の生活」のシークエンスには場内失笑してましたが。あと、この手の話って、どうしていつもこういうラストなんでしょうか?夫1人妻2人で仲良く暮らしました、めでたしめでたし、となると女性層の共感を得られないからかなあ?80年代香港喜劇映画の傑作『大丈夫日記』(主演はチョウ・ユンファ)のように、みんながムスリムになってめでたしめでたしでも良いと思うんだけれど、メロドラマの法則がそれを許さないようです。

津波で消えたかみさんの甥Aはアズハルの学生だったので、できることなら彼の感想を聞いてみたいものです。また、アズハル大学に100人以上在学しているアチェ人留学生たちはこうした映画に共感するのかしないのか。あるいは、エジプトのコプト教徒はこの映画をどう見るのか。あからさまではないにせよ、アラブに対するインドネシアのイスラームの優位とインドネシアナショナリズムが通奏低音となっているこの映画が、外国人や他宗教の信者にどう受容されるのか、調べてみたら面白いのではないかと思います。

ただし映画のレベルとしてはそれほど高くないので、日本で上映される可能性は低いでしょう。カップルで見るにはまあ悪くない映画なので、マイミクの皆さんには暇でしたら一見をお勧めいたします。

2018年11月30日金曜日

映画メモ 『 Suzzanna: Bernapas dalam Kubur 』


 先日近所のCinemaxx でLuna Maya 主演の怪奇映画Suzzanna; Bernapas dalam Kubur を観てきた。タイトルを聞いて、「怪奇映画の女王」と呼ばれたスザンナ姐さんの伝記映画か!?と早とちり。実際は至極まっとうな怪奇映画だったのだが、ある意味時代錯誤と言うのか、非常に変わったスタイル、言うなればかつてブルース・リー没後に雨後の筍の如く作られた「ブルース・リーそっくりさん映画」みたいなテイスト満載。思っていたより楽しめたのは私がスザンナ姐さんファンだからか?

映画のあらすじやスタッフキャストについてはこちら。
http://filmindonesia.or.id/movie/title/lf-s026-18-453523_suzzanna-bernapas-dalam-kubur#.W_93ejj7TZ4

本作の監督はここ20年では最大の観客動員を記録した『Warkop DKI Reborn: Jangkrik Boss! part 1』のAnggy Umbara。今回初めて彼の作品を見たが、娯楽映画の王道を行くスタイルと感じた。奇をてらわず、観客の期待を裏切らない堅実な演出。ジャンル映画においては必須の要素だろう。他の作品を見てないので明言できないが、職人肌の監督なのかもしれない。

十中八九、日本ではまず上映されないタイプの映画だが、それだけにちゃんと作品評を書いておくべきかもしれない。まあ気が向いたらということで。

妖花スザンナを日本に紹介した四方田犬彦さんが本作を見たら、どう評されるだろうか?

<更新履歴>2018年11月30日WIB19時 誤字修正ほか

2018年5月5日土曜日

境界を越える女妖怪、クンティラナック

某メルマガに掲載予定の原稿。
 
私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
7回 境界を越える女妖怪、クンティラナック

 
前回はインドネシア怪奇映画の女王スザンナについて語り、最後は彼女の代表作Sundel Bolong の有名な場面を紹介しました。読者の方々はこの動画を見てゲラゲラ笑ったでしょうか?それともサテ屋の二人組のように、恐怖のあまり逃げ出したでしょうか?あるいはあまりの荒唐無稽さに馬鹿ばかしさに唖然(あぜん)とされたでしょうか?

深夜のサテ屋でスザンナはサテ200串を注文して一気食い、その正体は...


 さて、今回も前回に続きオバケの話ですが、特定の映画からは少し離れ、オバケや妖怪という魑魅魍魎(ちみもうりょう)が東南アジアにおいてどのように生まれ、発展し、さらに今後継承されていくのか、最近のニュースなども参考にしながら考察してみたいと思います。

 去る3月ボゴール交通警察は女妖怪「クンティラナック」Kuntilanakを広報動画に起用、こうした面白いネタに敏感なインドネシアのネット界では少し話題になりました。ヘルメット未着用のクンティラナックが交通警官に違反切符を切られ泣いて後悔するという内容です。





 妖怪にも交通ルールを遵守させようとする警察官、一方彼を偽紙幣で買収しようとするも逆に違反切符を切られるクンティラナック、この対比が可笑しいのですが、クンティラナックが誰でも知っているメジャーな妖怪であることもこの動画の面白さに寄与していると思います。
 
 ここで改めてクンティラナックという女妖怪について説明しておきましょう。クンティラナックは別名ポンティアナックpontianak とも呼ばれ、インドネシアだけでなくマレーシアでもきわめて知名度の高い妖怪です。西カリマンタンの州都はまさにそのポンティアナックという名前であり、その由来はスルタン(イスラームを奉じる王様)が王宮を造るさいにその地にいた女妖怪ポンティアナックを追払ったことにあると伝えられています。クンティラナックの特徴としては、①元は妊娠中あるいは出産直後に亡くなった女性、②青白い顔に長い黒髪を持ち白い衣服を着ている、③うなじ又は背中に穴があり釘や刃物でそこを塞がれると動けなくなる、④樹木の上に住み鳥のように空を浮遊する、などです。
 
 マレーシアではこの女妖怪はポンティアナックと呼ばれるのが一般的で、これはマレー語の perempuan mati beranak(出産時に死亡した女性)を短くしたものとの説があります。同様の女妖怪はバングラデシュやインドなどの南アジアにおいてはチュレルChurelと呼ばれ、日本の産女あるいは姑獲鳥(うぶめ)、タイのメー・ナーク・プラカノンとも親しい類縁関係にある妖怪と言えるでしょう。
 
 シンガポール繁栄の礎を築いた英国人ラッフルズの書記を務めたマレー人のアブドゥッラーはマレー半島で信じられている悪霊や妖怪について、自伝の中で以下のように書き記しています。マラッカに宣教師として赴任していたミルン氏の奥方とのやりとりです。

 彼女は一人の中国人の女性を雇っていて、彼女の服や子供たちの服を繕わせていた。ある日のこと、この中国人の女性がミルン夫人のところへやってきて言った。
「昨日、私の子供は家でプンティアナクとポロンに魅入られて死ぬところでした」
 ミルン夫人は、プンティアナクとポロンという言葉がわからなかった。中国人の女性は手振りや言葉でいろいろと説明しようとしたが、夫人は理解できない。そこで二人は、私が書きものをしている部屋にやって来て言った。
「プンティアナクやポロンというのは、どういう意味なの?」
 私は笑った。そしてミルン氏に、中国人やマレー人が信じている、愚にもつかない、役にも立たない、ありとあらゆる悪霊の名を、はっきりと説明した。それは我々の先祖の時代から受け継がれ、今日に至るまで続いているのである。私はそれらがおよそ幾つぐらいあるのか、その数をあげることも、また、その意味をはっきりさせることも出来ない。(後略)

アブドゥッラー著、中原道子訳『アブドゥッラー物語 あるマレー人の自伝』 平凡社東洋文庫 pp.108-109

 
プンティアナクとはポンティアナックを指し、訳注では「吸血鬼。産褥にある婦人とか子供を餌食にする悪霊」と解説されています。またポロンは使いの精で、遠隔地にいる誰かに取り憑く悪霊と言われます。この後アブドゥッラーは二十五にも及ぶ悪霊の種類や名前を挙げ、それらに対処するための悪魔祓いや魔術についても語っています。

 また、前世紀初頭にウォルター・スキートが著した『マレー魔術』には、死産した女性が化けたのがランスィールlangsuirであり、ふくろうの姿をして空中を浮遊するとの説明があります。そして彼女の子供がポンティアナックなのですが、年月を経るうちに両者は混同されるようになり、現在ではポンティアナックの方が子供を死産した女妖怪と認識されているようです。

首から下は内臓だけの女妖怪ペナンガランpenanggalanとランスィールlangsuirランスィールの長い爪が鳥を連想させる。
『マレー魔術』より

 このようにクンティラナック(ポンティアナック)はインドネシアやマレーシアという国家が誕生するよりも遥か昔から東南アジアに存在する伝統的なオバケなのですが、日本の妖怪の姿形が漫画家水木しげるの手によって明確なビジュアル化を施され多くの人々の共通認識となったように、クンティラナックもその姿形がはっきり定まったのは視覚メディアである映画を通してでした。マレーシアでのポンティアナック映画は1957年にキャセイ・クリス社によって製作された第一作を嚆矢(こうし)としてこれまでに15本以上が製作されており、一方インドネシアにおけるクンティラナック映画は1962年に喜劇色の強い第一作が公開、その後長い空白の期間を挟んで、2000年代にはほぼ毎年クンティラナックという名前を冠した作品が公開され人気を博しました。これらの中には怪奇ものというよりはコメディに分類すべき作品も含まれていますが、両者を合わせると30本前後の映画がこれまで作られてきました。

 なお、マレーシア初のポンティアナック映画主演女優はマリア・メナードといい、彼女はオランダ植民地時代に北スラウェシのマナドで生まれ、ジャカルタを経て戦後のマレー半島やシンガポールでモデルをしていたところ映画女優としてスカウトされたという経歴を持ちます。当時東南アジアで一番の美女と呼ばれた彼女が世にも恐ろしく醜い怪物ポンティアナックに変貌する場面が大いに観客に受け、映画は大ヒットを飛ばしシリーズ化されました。しかし残念なことに、彼女がパハン州のスルタンと結婚し引退した後、スルタンが彼女主演のオバケ映画の封印を望んだために、キャセイ・クリス社長のホー・アロクはフィルムを破棄、現在フィルムは完全な形では残っていないそうです。元々目に見えない霊的存在だったポンティアナックが彼女主演の映画によって視覚的存在として多くの人に認知されたのも束の間、フィルムが失われたことでポンティアナックは幻の存在に再び戻ったと言えるのかもしれません。

女優時代のマリア・メナード。現在86歳、スルタン妃として存命。
シリーズ第3作『ポンティアナックの呪い』(吸血人妖)中国語広告。右から読みます。
 これらの映画の粗筋紹介は割愛しますが、5060年代に製作された作品は当時の怪奇映画の常として、女妖怪が伝統的村落共同体を危機に陥れるものの、最終的にオバケは退治され共同体の秩序は回復される(ただしいつか怪物が復活することも暗示される)物語とまとめることが可能でしょう。一方、70年代から90年代にかけての急速な近代化と都市化の進展は怪奇映画にも影響を与え、かつての物語の型が観客には受容されなくなりました。具体的には、フェミニズムやメタ物語的な批評的視点が加わり、あるいはクンティラナックという超自然的存在を通して女性の自己同一性が問われる作品の出現です。夜な夜な男性たちを襲う恐ろしい女妖怪は一方で我が子を盲目的に愛する母親でもあり、怪奇映画というジャンルを通して母娘のメロドラマが語られていたのが旧作群であるとすれば、今世紀以降に製作された作品のメッセージは様々ながら、物語の女性たちが主体的に行動し、時に女妖怪に化けるように見えて実は多重人格の持ち主かもしれないと観客に錯覚を起こさせる、あるいは「信用できない語り手」によって観客を宙吊りの状態にする、一筋縄ではいかない作品が多い傾向が見られます。妊娠した女性に限らず全ての女性はクンティラナックという妖怪になる可能性があり、その怒りを完全に抑えることはイスラム導師を含め誰にもできない、そして女性と女妖怪は時として互換性を持ち、人間と異形のものという境界そのものを無効にしてしまう。これこそ怪奇映画のもっとも新しい主題であり、クンティラナックという女妖怪の最新モードと言えるでしょう。
 
奇しくも先日の米アカデミー賞で主要4部門を制したのは鬼才ギレルモ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』でした。モチーフは『美女と野獣』のように見えて、実のところオリジナルは1954年ハリウッド製怪奇映画『大アマゾンの半魚人』。技術系部門の賞を除けばモンスターものやSF作品には極めて冷淡だったアカデミー賞の歴史において、『シェイプ・オブ・ウォーター』の受賞は画期的でした。映画内で女性主人公は文字通り境界を越え半魚人と一体化するのですが、実はこうした人間と異形のものの差異を無効化する視点は、インドネシアに限らず日本を含めたアジアの伝統的な物語の中にも見出されるものです。壁を築き境界を高くしようとする政治的動きは今世界各地で散見されますが、それに対する文化的カウンターもあちこちで聞こえてきます。いずれクンティラナックを主人公とした映画が権威ある映画祭の場で顕彰される日はそう遠くないのではないでしょうか。
  
  さて、最後は20172月に地元紙で話題になった以下の記事でこの稿をしめたいと思います。

 先述した西カリマンタンの州都ポンティアナックに女妖怪の巨大な彫像を建てる構想が観光局長の口から語られたとの内容です。マレーシアの都市クチンに猫の像が、シンガポールにマーライオンの像が、それぞれ存在することがヒントになったようで、街のシンボル及び観光名所としてカプアス河とランダック河が合流する地点に高さ100m(!)のポンティアナック像建設を考えているとのこと。あまりの荒唐無稽さに住民からは反対の声も出ているそうで、実現させるには多くのハードルが予想されますが、巨大オバケ像を使った町おこしというのはかなりユニークであることは間違いありません。はじめに紹介したクンティラナックに交通違反切符をきる警察官同様、恐ろしい妖怪ですらこうして手なずけて馴化させてしまうインドネシア人の想像力には脱帽です。

 さて、これまで三回続いたオバケの話は一応ここまでとし、次回からは先ごろ発売された大部の論文集『東南アジアのポピュラーカルチャー』を元本に、さらにディープな大衆文化を紹介していきたいと思います。それではまた次回!

<参考文献>
四方田犬彦 『怪奇映画天国アジア』 白水社 2009
 Walter William Skeat, Malay Magic  Being an introduction to the folklore and popular religion of the Malay Peninsula, 1900
アブドゥッラー著 中原道子訳『アブドゥッラー物語 あるマレー人の自伝』平凡社東洋文庫 1980




2018年2月4日日曜日

映画『悪魔の奴隷』が描く恐怖とは何か?

2月の某メルマガ連載原稿。2017年版はもう一回見直したいなあ。iTUNE配信はいつからだろう。


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
第5回 『悪魔の奴隷』が描く恐怖とは何か?

 前回まではインドネシアの国家英雄であるチュッ・ニャ・ディン、カルティニ、タン・マラカについて映画や書籍を通して語ってきました。今回からはややお堅い国家英雄の話からは離れ、もう少し俗な話題を取り上げていきたいと思います。まずはインドネシア人が大好きなオバケに関連した話から。オバケと聞いて眉をひそめる方もいるかもしれませんが、オバケが分かればインドネシアのことも分かるはず!と信じてつらつら書いてみようと思います。

 ここ数年のインドネシア映画界が産業としても好調なことは、チカランやジャカルタの映画館へ最近行かれた方は肌で感じていると思います。年々増加するスクリーン数と映画鑑賞人口には海外投資家も注目し始めており、わずか15年前は古い映画館の閉鎖が続き、街中に海賊版DVDやVCDの露天商が溢れていたことが嘘のようです。多くのインドネシア人観客を集めている作品はティーン向けロマンス、あるいはイスラーム教風味のロマンス、またはコメディだったりするのですが、ジャンルとして強固に観客から支持されているものの一つとしてホラーものがあります。(以後、「怪奇映画」というやや古臭いながらもおどろどろしさを感じさせる用語を用います)

 驚くべきことに昨年2017年のインドネシア国産映画観客動員数ベスト10のうち5本が怪奇映画なのです。そして堂々観客動員数第一位となったのは、今回紹介する映画『悪魔の奴隷』(Pengabdi Setan) でした。100万人突破すればヒット作品と言われるインドネシア映画界でなんと420万人超の観客を集め、しかもここ10年間の中でも歴代第4位、怪奇映画としては空前の大ヒット作となりました。マレーシアやフィリピンなど近隣国でも上映されて好評を博し、マレーシアでは近年のインドネシア映画の中では最大のヒット作になったと報じられました。

Pengabdi Setan (2017) オリジナルポスター


Pengabdi Setan ( 2017) official trailer


 実は本作『悪魔の奴隷』は1980年に製作公開された同名作品のリメイクです。 80年代を代表する怪奇映画の名作と言われ、監督は怪奇映画の女王と呼ばれた女優スザンナと後に多くの作品でコンビを組んだシスウォロ・ガウタマ。日本では80年代のビデオブーム時代にB級ホラー作品として『夜霧のジョキジョキモンスター』の邦題でリリースされました。知る人ぞ知る映画と言ったところでしょうか。

Pengabdi Setan ( 1980 ) オリジナルチラシ

 ストーリーは新旧ともにそれほど複雑ではありません。タイトルとポスターが示しているように、死者の蘇りという脅威に対してある一家がどうたち向かうか、というものです。怪奇映画の定石として、観客をドキッとさせる思わせぶりな演出が何回も繰り返され、そしてクライマックスでは真の恐怖を観客に体験させる趣向がなされています。
 
 1980年の旧版を今見直してみると、特殊メイクが現在の水準からは古臭く、失笑してしまう観客も今日ではおそらく少なくないでしょう。いや、そもそもインドネシアにおいて怪奇映画がこれほど人気を呼ぶのは、「恐怖」と「笑い」を映画館で同時に体験したいという観客の欲望があるのかもしれません。
 
 一方、2017年の新版は観客に恐怖やショックを与える場面は何回もあるものの、描写そのものはやや控えめで、スプラッター映画のような血まみれ演出はほとんど皆無、肝心の死者も主役?「悪魔の奴隷」も最後まで直接姿を見せません。ライティングや衣装や小道具や音楽など画面全体に漂う古風な雰囲気でじわじわと怖がらせる手法は、特殊効果とCG全盛の現在では珍しいもので、それが逆に若い観客層には新鮮でウケたことが記録的な大ヒットに繋がったと私は捉えています。

 実のところ私自身はホラーも怪奇映画も今まで積極的に観てきたわけではないのですが、本作については劇場に駆けつけました。B級映画好きで小津安二郎のようなA級古典作品は苦手だとかつて監督のジョコ・アンワルがインタビューで答えていたことが非常に印象に残っていたからです。専門学校で映画演出や技術を学んだ経歴を持たず、B級作品が好きであると公言する彼こそ「インドネシアのクエンティン・タランティーノ」と呼ぶのが相応しいと常々思ってました。果たして、リメイク『悪魔の奴隷』はB級どころか堂々たるA級作品で良い意味で裏切られました。あえて設定を旧版と同じ1980年に設定し、衣装・小道具・ロケーション・音楽等には徹底的に凝り、俳優たちにはリアルな演技を要求、結果として完成したのは古典的なスタイルの怪奇映画でした。これまで批評家にはウケが良く、日本はじめ海外での上映も少なくなかったジョコ・アンワル作品ですが、国内興行成績は決して良くはなかっただけに、今回の大ヒットは彼自身にとって僥倖(ぎょうこう)であり、製作に関与した韓国CJグループも次の作品に繋がるとして歓迎していることでしょう。
 
 新版『悪魔の奴隷』がこれほどの大成功を収めた作品としての魅力は先述のとおりですが、指摘しなくてはならない点がもうひとつあります。深読みしすぎと一笑にふされることは承知の上で、旧版と新版の重要な相違を書き出し、新版の大ヒットが意味することを考えてみます。

 新旧両方を見比べた人であれば誰でも気づくこと、それは作品内におけるイスラーム教の位置づけです。新旧どちらでも主人公一家たちは明らかに世俗化された一家で、日々礼拝する様子は出てこず、礼拝しようとすると悪霊の邪魔が入る描写は共通しています。新版では3回にわたり葬式や埋葬がおこなわれますが、埋葬直後の集団祈祷において父親がなんとも居心地の悪そうな顔をしているのが印象的です。新版では主人公たちの近所にはウラマー(イスラーム導師)がいて、時折様子を見に来るものの、危機においては全く役に立たず、文字通り画面から消えてしまいます。しかし、旧版ではウラマーが全ての問題を解決してジ・エンドとなります。

 つまり端的に言って、旧版は「イスラーム宣教映画」であり、新版は「反イスラーム映画」なわけです。ここで旧新版が製作公開された時代背景を比較してみましょう。
 
 旧版が製作された80年はスハルト政権が磐石となった時期であり、政治的なイスラーム勢力は無力化されていった一方、反共主義の一環として宗教的敬虔さは推奨され始めた頃と重なります。ラストにおいて主人公一家がモスクから出てきて安心立命を得るのは政権イデオロギーとも重なるわけです。子供二人というのも家族計画を強力に推進していた当時の政策に則った設定かもしれません。しかし新版は1980年という設定ながら、子供は4人に増えており、なによりもウラマーは主人公一家と雑談するくらいで全く活躍しないのです。人知を超えた悪魔の所業にイスラームは無力であるというのが新版の結論で、これは旧版とは真逆の結末に他なりません。

 スハルト政権崩壊後のインドネシア社会における政治的イスラーム勢力の拡大と、主に新興中間層にイスラーム復興現象が顕著なことはつとに研究者によって指摘されるますが、新版の大ヒットをこうした文脈ではどう解釈すればいいのでしょうか?所詮荒唐無稽なオバケ話と多くの観客に思われているのか、敬虔なイスラーム信者たちはそもそも怪奇映画を見に行かないのか、あるいは社会に横たわっている目に見えない反イスラーム的な感情や欲求不満が大ヒットという形で視覚化されたのか。

 映画を政治的文脈からのみ批評することを私は好みませんが、ジョコ・アンワル監督が昨年のジャカルタ州知事選挙で元ジャカルタ州知事アホックを支持していたこと、彼自身がゲイであることを公言、そしてアホックが保守イスラーム勢力の推すアニス・バスウェダンに選挙で大敗し宗教侮辱罪で有罪となった事実と照らし合わせると、監督自身のモヤモヤをこの作品の中に込めたのではないかと解釈することは、あながち牽強付会とも言えないと思うのですが、如何でしょうか?

 ただし付記しておくと、スハルト政権時代に製作された映画はどんなジャンルでもある意味「宗教は最終的に勝つ」「混乱は収拾され秩序は回復される」物語であり、その反転した形がスハルト政権崩壊以降のインドネシア怪奇映画のパターンでもあります。宗教指導者の権威は失墜し、物語世界の混乱はなんら回収されず終わるという結末は必ずしも珍しくありません。私の深読みは的外れで、ジョコ・アンワル監督は定石にただ従っただけなのかもしれません。
 
 いずれにせよ、新版が描いた恐怖とは、世界を統べる原理がもはや権威を失い存在しえないという指摘に他なりません。折りよく本作は日本でも「未体験ゾーンの映画たち2018」の一本として、ヒューマントラストシネマ渋谷やシネ・リーブル梅田で間もなく上映されます。昨年見逃した方はこの機会にぜひどうぞ。そのスタイリッシュな画面構成と色彩、そして音響に五感を集中して、じわっとくる恐怖を感じていただきたいと思います。 



 次回はオバケ話の続きということで、80年代に一世を風靡した怪奇映画の女王スザンナと彼女の作品について語ってみたいと思います。それではまた来月!

<参考文献及びウェッブサイト>
四方田犬彦 『怪奇映画天国アジア』 白水社 2009年
filmindonesia.co.id   ( インドネシア映画データベースサイト)
https://www.cnnindonesia.com/hiburan/20170928023545-220-244507/ulasan-film-pengabdi-setan 
https://en.wikipedia.org/wiki/Pengabdi_Setan_(2017_film)

2017年12月28日木曜日

インドネシア映画コラム7本 日本とのつながり、女性映画人など

先日アップした「インドネシア映画の過去・現在、そして可能性」の補足コラム。
謎の日本人女優タケウチ・ケイコについてはレコードを出していたことも判明。また1966年の政変後、67年か68年には日本映画の輸入がパッケージでおこなわれていたとの新聞報道も見かけた。日本とインドネシアの映画界芸能界の繋がりは薄い関係ながら戦後も続いたようで、対日観の変遷の点からも調査研究が必要と思われる。


コラム1 三つの名を持つ映画監督 ドクトル・フユン(1908-1952)


 ドクトル・フユンこと日夏英太郎こと許泳(ホ・ヨン)の複雑な人生は映画やTVドラマの原作になりうると私は思っているが、実現にはかなり困難が伴うことも感じている。朝鮮出身の彼は日本、朝鮮、インドネシアで映画製作をおこなったものの、傑出した作品を後世に残したわけではなく、むしろ「売国奴」や「戦犯」として告発されてもおかしくない作品も撮っているからだ。当時の内鮮一体政策に沿った劇映画「君と僕」しかり、連合軍捕虜を人道的に処遇していることを訴える(やらせ)ドキュメンタリー「豪州への呼び声」しかり。


 しかし彼の足跡を追ってみると、彼を突き動かしていたのは当時の限られた条件下で何とかして映画を撮りたい、ただその一心だけだったのではないかとも思える。現存している「天と地の間に」は国産映画初のキスシーンを含んだゆえに検閲されたが、独立戦争下でインドネシア側につくべきかオランダ側につくべきか迷う主人公は監督のフユン自身を投影しているようにも見えて興味深い。朝鮮出身のある意味平凡な映画人であった彼がどうしてドクトル・フユンとしてジャカルタで亡くなったのか、その足跡をたどることは国ごとに分断されがちな映画史を乗り越える視点を今日でもなお提供してくれる。もっと知られていい映画人であろう。

 なお、興味のある方は日夏英太郎の遺児、日夏もえ子さんによる以下のホームページ及び書籍を参照されたい。
http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/

コラム2 インドネシア映画の父 ウスマル・イスマイル(1921‐1971) 
 
 言わずと知れた「インドネシア映画の父」。独立革命戦争後にプリブミ系製作会社プルフィニを起ち上げ、新興国家インドネシアのアイデンティティを確立するために様々なジャンルの映画を監督した。代表作に「血と祈り」「夜を過ぎて」「賓客」「三人姉妹」「女子寮」「自由の戦士たち」「芸術家の休暇」「ビッグ・ビレッジ」など。私が見たのは監督作33本のうち5本にすぎないが、どの作品でも印象的だったのはリアリズムとロマンスの見事な融合であり、スマートな音楽の使い方であり、緩急自在な語り口だった。

 特に50年代を通じて最もヒットした映画といわれる「三人姉妹」は魅力的な女優たちと甘美な歌が今見ても実に素晴らしい。その一方、ナショナリズム高揚期の雰囲気が濃厚に漂っているのもウスマル作品の特徴といえる。そうした視点でインドや中国、他の東南アジア諸国の同時期の映画と見比べてみると、また新たな発見があるのではないかと思う。

コラム3 多様性を追求する女性監督 ニア・ディナタ(1970-)
 
 スハルト退陣後の改革時代を代表する女性映画人の一人。ジェンダーやマイノリティやエスノシティの問題及び視点を国産映画に本格的に取り入れた功績は大きい。長編デビュー作「娼館」は中国系インドネシア人を主人公とし、しかも肯定的に描写したおそらく初の国産映画。2作目「アリサン!」では道化ではないゲイを登場人物として設定し、3作目「分かち合う愛」では多妻婚を様々なケースから描いた。女性問題のドキュメンタリー映画製作やキッズ映画祭運営にも関わり、劇映画プロデュース最新作はニューハーフのヒーロー(ヒロイン?)が活躍するアクションコメディ「マダムX」。

 ニア作品からうかがえるのは常に多様な視点を観客に提示しようとする姿勢だろうか。女性問題を訴える場合においても、差別の現状を直接告発するよりは一歩引いた視点を採用し、さらに別の事例を並列させることが多い。ジョコ・アンワル監督の「ジョニの約束」では自己パロディのような役を楽しそうに演じているのが印象的であり、今後も「女性映画」のジャンルにとどまらない活躍が期待される。

コラム4 初めにイメージありきの芸術派女性監督 アン・ナハナス(1960-)
 
 スハルト時代から短編映画で抜きん出た才能を示しており、長編デビュー作「囁く砂」をNHK製作、クリスティン・ハキムとディアン・サストロワルドヨ主演で2001年に発表。ブロモ山周辺の荒涼たる風景を主な舞台とする母娘の物語をシュールなタッチで描いた。イラン製児童映画に影響をうけたとおぼしき2作目「旗」は、小学生たちが下町でインドネシア国旗を探しまわる物語。3作目「写真」は地方都市を舞台に、滅びゆく写真屋の中国系主人とシングルマザーのカラオケ屋ホステスとの交流を描く。

 いずれも地味なストーリーの芸術映画だが、画(イメージ)への執着は第1作の冒頭シーンから明確にあった。ストーリーよりもイメージ先行の映画監督と言える。「写真」においても終盤のショッキングな場面を初めに構想していたことは間違いないだろう。決して大衆受けする内容ではないが、早撮りで粗製乱造気味の国産映画界においては貴重な存在。近年はプロデューサー業に専念している。

コラム5 芸術と娯楽の境目を狙う敏腕女性プロデューサー ミラ・レスマナ(1964-)
 
 改革時代に入って次々に話題作ヒット作を連発するまさに「台風の目」と言っていいプロデューサー。自身が立ち上げたマイルズ・プロダクションを拠点とする。児童ミュージカル「シェリナの冒険」、日本でも劇場公開された青春ロマンス「ビューティフル・デイズ」、60年代活動家の伝記「ギー」、ベストセラーが原作で2008年に記録破りの大ヒットとなった教育的啓蒙映画「虹の戦士たち」などが代表作。一般観客の支持だけでなく批評家からの評価も高く、国際映画祭での上映も多い。一般観客にわかりやすい語り口で、且つ一定のクォリティを維持した作品を次々に送り出している。
 
 彼女自身はインタビューで常に興行成績を気にしているが、金儲けのための映画は作らないと明言しており、市場で多数を占める低予算のホラーものや安直な若者向けラブストーリーには今後も手を出さないと思われる。次回作はプラムディヤ原作の「人間の大地」。今まで以上に国内外から注目を集めるだけに製作には難航が予想され、プロデューサーとしての真価が問われるだろう。

コラム6 幻の日=イネ合作映画「栄光の影に」
 
 日本の、というより世界の怪獣王と言えば誰でも思い浮かべるゴジラ。しかし、ゴジラの誕生にインドネシアが関係していたことを知る人はインドネシア研究者においては少ないのでは?

 実はインドネシアと日本の合作映画「栄光の影に」製作が中止されたために東宝の映画プロデューサー田中友幸によって急遽企画されたのがゴジラであった。「栄光の影に」は独立革命戦争に参加した日本兵を主人公とした物語だったらしい。50年に公開されヒットした「暁の脱走」と同キャスト(池辺良、山口淑子)同スタッフ(黒沢明と盟友の谷口千吉監督)、インドネシア側はウスマル・イスマイルが協力する予定だったが、当時は日イネ間の賠償問題が解決していなかったためインドネシア外務省がビザを発給せず製作中止となった。もしこの映画製作が順調に進んでいた場合、ゴジラは誕生しただろうか。核の脅威が現実のものであり戦争の影を引きずっていた当時の世相を考えると、怪獣映画の傑作ゴジラは遅かれ早かれ誕生しただろう。それだけに初の日イネ合作映画製作が頓挫したことは残念でならない。

 なお、51年には市川昆監督の「ブンガワンソロ」が公開されている。こちらはインドネシア人を日本人俳優が演じているが、ちゃんと俳優たちにインドネシア語をしゃべらせている点、日本人視点のオリエンタリズム映画として興味深い作品である。また「モスラ」で小美人が歌う歌がインドネシア語であることは有名。ただし最近のインドネシア人にはあまり聞き取れない模様だ。

コラム7 インドネシア映画は混血映画?
 
 本格的な国産劇映画の誕生をオランダ時代とするか、あるいは独立後のプルフィニ設立後とするか、評者によって意見は分かれるだろうが、確かなことはインドネシア映画が常に外来者と混血者によって発展してきた事実であろう。ヨーロッパ系は当初は技術者と資本を、のちには混血俳優を提供し、中国系は製作と配給において、インド系はその映画様式でそれぞれ影響を与えてきた。今日においても少なくない著名俳優や芸能人が混血者である。ナショナリズムを鼓舞する映画で実は主人公が混血だったり、実際の出自や宗教と異なった役柄を演じているのを見ると奇妙な感じがするのだが、インドネシア人観客はどう感じているのだろうか。

 日本映画の影響は限られているものの、チャンバラとりわけ60年代から70年代にかけて第三世界を席巻した座頭市の影響は当時のアクションものに色濃く見られる。また日本軍占領時代には日本映画が多く上映されたものの字幕無しが通常だったため、画面の横でストーリーを説明する人がいたとされる。それが弁士のような語り部だったのか、あるいは単なる説明者だったのか、今後の研究が待たれる。
 
 なお、63年のジャヤクスマ監督作品「台風と嵐の時代」及び65年のウスマル・イスマイル監督作品「芸術家の休暇」出演者名簿にタケウチ・ケイコとの記録がある。日本人と見られるが、日本人役ではない。一体どういう経緯で当時の国産映画に出演することになったのか、謎である。どなたか事情をご存知の方は是非教えていただきたい。

<更新履歴>
2017.12.28  ラベル追加

2017年12月26日火曜日

映画評『虹の兵士たち』リリ・リザ監督

某団体のニュースレターに寄稿した映画評。
本作品の観客動員記録は昨年のワルコップDKIリボーンまで破られなかった、まさに内容的にも興業的にもここ20年のインドネシア映画を代表する一本。映画上映後にはミュージカルも製作され、こちらも話題になりました。

実のところ、私はこういう教育啓蒙映画が苦手、もっと言えば嫌いな映画の部類。上から目線の「啓蒙」という概念が嫌いなのだ。もっとも、本作に限って言えば、それは杞憂であるし、今のインドネシアではこういう映画こそが望まれているし必要なことも重々理解している。

ただし、本作を「インドネシア版二十四の瞳」と形容して日本へ紹介した人を信用してはいけない。『二十四の瞳』はそういう甘い教育話では全くない。これは原作小説も木下恵介の映画も同様。あなたは本当に『二十四の瞳』を読んだのですか、映画を見たのですか?と問い詰めたい気分になったことを今でもよく覚えている。



ぶくぶくニンジャ 
DVD 虹の兵士たち(原題 Laskar Pelangi )
2008年劇場公開 125分 製作マイルズ・フィルムズ
プロデューサー ミラ・レスマナ 監督 リリ・リザ 脚本 ミラ・レスマナ、リリ・リザ
出演  チュッ・ミミ、イクラナガラ、スラメット・ラハルジョ、トラ・スディロ、ズルファニ、フェルディアン、フェリス・ヤマルノ

 ここ数年のインドネシア映画は好調だ。昨年2008年はそうした勢いを象徴する映画が立て続けに大ヒットを記録した。一つはイスラム風メロドラマの「愛の章」(原題Ayat ayat Cinta)、もうひとつが今回紹介する児童映画「虹の兵士たち」(原題Laskar Pelangi)である。共にベストセラー小説を原作とし、人気歌手が歌う主題歌も映画同様のヒットを飛ばした。観客動員数は前者が400万人弱、後者が400万人超。TVや雑誌は特集記事を組み、原作者は共に一躍時の人となり、ちょっとした社会現象にもなった。両者の違いを挙げるとすれば、前者が改宗と一夫多妻をテーマとしているせいかストーリーへの厳しい批判があった点、一方後者は一般観客だけでなく批評家からも多くの支持を受け、ベルリン映画祭ほか海外へも広く紹介された点だろう。外国映画と比べて質の低さが常に指摘されてきたインドネシア映画界において、本作は興行面と内容面の両方で大成功を収めた作品であり、ティーン向けラブストーリーやホラーが国内映画市場を席巻している現状に一石を投じたと言えよう。

 本作の時代設定は70年代末、錫生産で豊かなはずのブリトン島の、歴史はあるがほとんど廃校寸前のムハマディヤ小学校を舞台に、教師と生徒たちが厳しい環境の中で奮闘する様子が時にユーモラスに、時に共感をこめて描かれている。「知性は数値からではなく心で見るもの」と語る理想主義者のハルファン校長と腕白な生徒たちを「虹の兵士たち」と呼ぶ新任の女性教師ムスリマに見守られながら、主人公イカルをはじめとする個性豊かな子供たちはどこか郷愁を感じさせる風景の中で、学び、働き、悩み、そして走っていく。ストーリー前半の山場は、独立記念日学校対抗フェスティバルで楽器がないことを逆手に生徒たちが奇抜な創作ダンスを演じて堂々1等賞に輝く挿話であり、後半では学校対抗テストにおいて数学の天才リンタンがその才能を存分に発揮するシーンだ。両方とも、自分たちは貧しいが豊かな他校の生徒には負けないとの主人公たちの気概が伝わってくる、名場面になっている。そして、そのリンタンが漁師である父の急死から学校を辞めざるを得なくなるところから物語は終息へ向かい、成人した主人公のイカルがフランス・ソルボンヌ大学への留学前に帰郷してリンタンと再会し、夢を持ち続けることの大切さを観客に訴え本作は幕を閉じる。非常に教訓的な、ある意味予定調和的な終わり方なのだが、原作者アンドレア・ヒラタの実体験が元になっているので、ご都合主義とは言えず、むしろ観客に爽やかな余韻を残す。

 本作が成功した要因は、ベストセラー小説の映画化というだけでなく、「全ての子供には教育を受ける権利がある」との明瞭なメッセージを、リアリズムと共に平易に語った点に負うところが大きいと思う。生徒役を全て地元のブリトゥン島の子供たちから選び、オールロケーションで撮影した結果、インドネシア映画やTVで一般的なファンタジーに陥らずにすんだことが幸いしている。いまだ良好とは言い難い環境の中で学ぶ子供たちや、そうした学校に通わせるしか選択肢のない親たちが本作の登場人物たちに強く共感したことは間違いのないところだろう。

 日本では去る3月に国際交流基金主催の映画祭において上映されたが、最近インドネシアでも英語字幕付きDVDが発売されたので、多くの人に見てほしいと思う。

<更新履歴>
2017.12.28 ラベル追加

2017年12月21日木曜日

インドネシア映画の過去・現在、そして可能性

日本インドネシアNGOネットワーク(JANNI)会報76号(2011年8月)に掲載されたインドネシア映画についての原稿を再掲。本文のこれとは別に気になる映画人やトピックについては別にコラムも書いた。

今一度インドネシア映画の研究に時間を割きたい...



インドネシア映画の過去・現在、そして可能性
轟英明(ジャカルタ在住)

はじめに

 ここ数年明らかにインドネシア映画(以下国産映画)は興行的にも内容的にも好調の波に乗っている。インドネシアではシネコンでの上映が一般的だが、最低1本は最新の国産映画がシネコンで常に上映されていると言っても過言ではない。(例外は各種娯が自粛される断食月の時期)あるいはDVDショップへ行けば、近年上映された国産映画を見つけることは海賊版、正規版を問わず困難なことではない。
 日本の映画事情しか知らない人にとっては当たり前のことでも、20年前から国産映画を見てきた私のような人間にとってはこうした現状は実に感慨深く思える。何故なら私が国産映画を見始めた頃、国産映画は瀕死の状態だったからだ。ようやく国産映画を上映している映画館を見つけたと思ったら、しょぼい出来のソフトポルノでがっかりしたり、昔の映画のVCDを購入したもののトリミングされた上にひどい状態の画面、当然字幕なし、結局途中で挫折したこともあった。無論映画の質やジャンルに関して言えば今でも不満は多々あるが、以前よりも作品の選択肢が広がったことは間違いなく、しかも近年は多くの作品が英語インドネシア語字幕付DVDで発売されていることは歓迎すべき変化である。そう、インドネシア映画界は間違いなく活況を呈しているのだ。
 しかし、動画サイトで一瞬にして世界につながると同時にあっという間にそれらが忘れ去られていくデジタル時代に、国産映画は今後も活況を維持できるだろうか?活況のように見えて実は多くの人の記憶に残らない映画が増えているだけなのではないか?
 前置きが長くなったが、この稿では国産映画の歴史を振り返ると共に、今後目指すべき方向性とその可能性を未来への展望として述べてみたい。

国産映画史の時代区分

 国産映画史を振り返る際、国内の政治変動と切り離して論じることは不可能である。ここでは便宜的に国産映画史を以下の4つの時代に分けて論じる。①オランダ植民地時代及び日本占領時代(1926-1945)③独立からスカルノ失脚までの旧秩序時代(1946-1966)④スハルト独裁による新秩序時代(1967-1998)⑤スハルト退陣後の改革時代(1999-2011)。なお、日本語の映画題名は日本で劇場公開あるいは映画祭等で上映された場合にはそちらを優先した。

オランダ植民地時代及び日本占領時代 -国産映画の黎明期(1926-1945)

 19世紀の終わりに発明された映画がオランダ植民地時代のインドネシアで初めて上映されたのがいつどこだったのか明確な記録はないが、1900年にはバタビア(現在のジャカルタ)において映画が上映されたことが確認されている。(四方田、57頁)1905年には常設の映画館ができたものの、ヨーロッパ人によるヨーロッパ人のための映画館だったようだ。(松岡、212頁)
 1910年代から映画製作が本格的に始まっていた日本・インド・中国に遅れること十数年、インドネシアでも1926年に初の無声劇映画「猿に化身した男」Lutung Kasarung がバンドゥンにおいてドイツ人 L・ヒューヘルドルプとオランダ人 G・クルーゲルによって作られた。物語は西ジャワの伝説を基にし、出演者は当時のバンドゥン県知事の子供であったが、実際の製作は外国人によって担われた。(JB Kristanto、1)このような枠組み、すなわち俳優や重要でないスタッフは土着系(プリブミ)である一方、製作者や監督や撮影などの重要なスタッフ及び配給は非プリブミ(華僑やオランダ人)という構造はこの後も長く続いた。この時期の主な華僑映画人に上海出身のウォン兄弟、初のトーキー作品「チクンバンの薔薇」Boenga Roos Tjikembang などを製作監督したテー・テン・チュンがいる。興味深いことに当時映画の題材となったのは初期ムラユ語大衆小説「ニャイ・ダシマ」やブタウィの義賊物語「ピトゥン」、あるいは中国本土の古典「西遊記」、「白蛇伝」、「梁山伯と祝英台」だった。(JB Kristanto、1-5)
 37年には南海を舞台としたハリウッド製ミュージカルを翻案した「月光(Terang Bulan)」 が封切られマレー半島やシンガポールへ輸出されるほどの大ヒットとなった。主演女優ルキアは一躍大スターとなり、多くの資本家が映画製作に目を向けるきっかけともなった。それまで年間製作本数は二桁に満たなかったが、40年に14本、翌41年には30本と急増した。(JB Kristanto、5-11)
 しかし42年から始まる日本軍政は国産映画の興隆にストップをかけた。ほぼ全ての映画製作会社は閉鎖され、日本軍の統制下にあるジャワ映画公社(のちに日本映画社)のみが製作を担ったからである。日本映画社は主にニュース映画・文化映画を製作したため、劇映画は「闘争(Berdjoang)」 や「対岸へ(Keseberang)」 など数本作られたのみだった。(JB Kristanto、11-12)上映作品を厳しく規制された映画館はその多くが閉鎖を余儀なくされ、戦前から活躍していた映画人、特に俳優の多くは大衆演劇サンディワラへ活動の場を移していった。(猪俣、99頁)その一方、日本軍は啓民文化指導所の映画部門で演出家や脚本家を養成し、プロパガンダを通してであったがプリブミ系スタッフはオランダ時代よりもより深く映画技法を学ぶ機会を与えられた。また移動巡回隊による映画上映はインドネシア語普及にも一役買っていた。(倉沢、79頁)結果として日本軍占領時代に独立後の国産映画隆盛の素地が作られたとも言えるだろう。

独立からスカルノ失脚までの旧秩序時代 -高揚するナショナリズム(1946-1965)

 インドネシアが独立を宣言した45年から47年にかけての劇映画製作本数はゼロであるが、ニュース映画が日本映画社から機材を引き渡されたインドネシア映画報道社によって撮影されている。劇映画の製作が復活するのは48年からであり、早くも50年には23本、ピークの55年には65本と記録されている。その後はスカルノ独裁政権下の政情不安や地方反乱、インフレの影響などもあって低迷し、40本を上回るにはスハルト政権下の71年まで待たなくてはならなかった。
 50年は国産映画にとって記念碑的な年である。初の民族系(プリブミ)資本による製作会社がほぼ同じ時期に設立された。芸術主義志向の映画監督ウスマル・イスマイルによるプルフィニ(PERFINI)と、商業主義志向の敏腕製作者ジャマルディン・マリクによるプルサリ(PERSARI)である。プルフィニが設立され、第1作「血と祈り(Doa Dan Darah、又はThe Long March of Siliwangi)」 の撮影が開始された3月30日はその後国産映画の日と政府によって定められている。 (Gayus Siagian、77-79)
「血と祈り」は独立戦争下のインドネシア人部隊がジョグジャカルタから西部ジャワへ行軍する物語であり、イタリア・ネオレアリズモの影響が感じられる作品である。素人俳優を起用し、セット撮影よりも野外ロケを多用したこの作品は、その後「独立戦争もの」と分類されるジャンルの嚆矢でもある。今作で特徴的なのは後年の類似作品のような声高いナショナリズムはむしろ控えめで、英雄賛美もあまり感じられない点だろう。主人公である部隊長はオランダ人混血女性にモーションをかけるかと思うと、従軍看護師にもアプローチするという優柔不断さ。行軍途中でダルル・イスラム軍支配下の村落で夜襲を受ける場面、退役した主人公が共産党員によって銃殺されるラストシーンなどは当時の事情を知らなければ容易には理解しにくい。現在残っているフィルムは音声も画面も劣化が激しく、しかも全体的に遅いペースで(文字通りのリアリズム?)物語が進み、戦闘シーンでは兵士の勇壮さはあまり強調されないので、単純に見て面白い作品とはいささか言い難い。しかし、実際の戦争終結から間もない時期に製作された今作こそが、おそらく戦争の実態により近いものであり、後年の類似作品の方がむしろ神話化された物語なのだろう。
 実際、10年後にウスマル自身によって撮られた「自由の戦士たち(Pedjuang)」では独立の大義に懐疑的なヒロインこそいるものの、全体のトーンとしては明朗そのものである。ロマンスやアクションなど娯楽要素の比重が増え、「血と祈り」とは異なり、敵であるオランダ軍が実に憎々しげに描かれている。
 ウスマルの盟友であったジャヤクスマのデビュー作「露(Embun)」やウスマルの「夜を過ぎて(Lewat Djam Malam)」では独立戦争後に復員兵が社会復帰することの困難さが語られている。戦後の社会にうまく適応できない生真面目な主人公の苦悩と、事業で成功した戦友や上司の欺瞞や横暴が対比され、独立とは一体何のため誰のためだったのかが問われている。こうした視点は後年のナショナリズムをテーマとした作品には見られないものであろう。
 外国映画に負けない質の高い国産映画の製作を目標とした彼らの作品からは、シリアスな題材であっても明るく前向きなナショナリズムや理想主義が感じられる。インドネシア文化とは何か、インドネシアの独自性とは何かを真摯に追求し、それを映画として結実すること。その一例はミナンカバウ地方とその文化を背景とするシラット映画「チャンパの虎(Harimau Tjampa)」、 ゴーゴリ原作の「検察官」を当時のインドネシアの文脈に換骨奪胎した政治コメディ「賓客(Tamu Agung)」などに見られる。(Hanan、40-41)
 一方、実業界出身でナフダトゥール・ウラマー党の政治家でもあったジャマルディン・マリクは隣国フィリピンやマレーシアとの合作、映画先進国インドからの監督・スタッフの招聘などを積極的におこなった。国民国家の枠組みが確固たるものになる以前ゆえにできたことなのか、いずれにしてもインドネシアのMGMたらんとした彼の野心的な行動力は国産映画史の中で異彩を放っている。
 当時そして現在も国産映画の最大のライバルはアメリカのハリウッド映画であるが、50年代から60年代にかけては、シンガポールを本拠地とする中国系映画会社ショウブラザーズ製作のマレー語映画や歌と踊りが満載のインド娯楽映画、またフィリピン映画もかなりの人気を博していた。国産映画の人気に陰りが見え始めると映画人はスカルノ大統領に国産映画の保護を要請し、輸入映画本数が制限されるようになったものの、それは国産映画の質向上には必ずしも結びつかず、経済状況の悪化に伴い65年には製作本数は15本まで減少している。また、当時一大勢力を誇ったインドネシア共産党傘下の文化団体レクラによって、帝国主義を喧伝するものとしてアメリカ映画のボイコットが呼びかけられたほか、バフティアル・シアギアンらレクラ所属の映画監督による左派映画も製作された。60年代前半から65年の9月30事件までの期間は、映画界においても共産党勢力と非・反共産党勢力の争いが激しかったようである。(Sen、27-49)

スハルト独裁による新秩序時代 ‐国産映画の産業化そして斜陽化(1966-1998)

 9月30日事件とその後の政治的動乱は映画界にも影響を及ぼし、69年の製作本数はとうとう9本まで減少した。またこの間中国系住民への迫害が続きスハルト政権の強圧的な同化政策もあいまって中国系の間でインドネシア名への改名が進んだ。ただ、68年にはカラー映画「ジャカルタ‐香港‐マカオ」が現地ロケで撮られたり、70年代初期の国産映画や香港映画ポスターに中国語表記が一部あるなど、実際に中国色が社会の表から消えるのにはしばらく時間がかかったようだ。
 60年代後半から70年代初期は白黒からカラーへの移行が進み、題材も世界的な潮流に倣ってセックスと暴力が銀幕を覆うようになった。とは言え、新秩序体制下の厳しい検閲のため描写そのものは外国映画と比べればおとなしいものだった。50‐60年代に活躍したウスマルやジャマルディンが70年、71年に相次いで若くして亡くなったのはこうした時代の変化を象徴する出来事だったと言える。
 70年代は題材が多様化し、従来のラブロマンスやコメディに加え、怪奇映画やコミック原作のアクション映画も作られるようになった。前者の代表作は怪奇映画の女王ことスザンナ主演の「墓場での出産(Beranak Dalam Kubur)」 やシラット映画の王者ことバリー・プリマ主演の「原始的(Primitif)」 、後者には「幽霊洞窟の盲人剣士」シリーズ( Si Buta dari Goa Hantu)」 が挙げられる。コメディ分野でも今なお愛される歌手兼俳優のベニャミン・Sが「モダンボーイ・ドゥル(Si Doel Anak Modern )」などで人気を博した。お色気コメディ、都市風俗、ドタバタナンセンス、独立戦争、シラット、大衆歌謡ダンドゥットなど、ジャンルの多様化が進む一方、それを専門とする監督や俳優が生まれ、映画がシリーズ化されたのもこの時期の特徴だろう。
 70年代から80年代を代表する監督としては、中国系のトゥグ・カルヤと、60年代にモスクワで映画を学んだシュマンジャヤを挙げたい。
 トゥグ・カルヤは「初恋(Cinta Permata)」、「母(Ibunda)」、「追憶(Doea Tanda Mata)」など繊細な心理劇を得意としたが、「1828年11月(November 1828 )」のような歴史大作も撮っている。「初恋」はその後国内外で最も著名な映画人となったクリスティン・ハキムの記念すべきデビュー作であり、その後何度もコンビを組むスラメット・ラハルジョとの初共演作としても記憶されている。今やベテラン俳優となった二人の若々しさが今日見ても実にまぶしい限りだ。「母」はバラバラになりかけた家族が最終的には母の元に集まりその愛情を確かめ合う物語。不倫、駆け落ち、パプア人との異人種結婚などの難題があっけなく解決してしまうのはご都合主義と言えなくもない。ただ、それは監督主導というよりはむしろスハルトの新体制が求めた面もあったように思える。時代が要請していた家族主義と言えるかもしれない。特にパプア人(劇中ではイリアン人)を知的でハンサムなエリートと設定しジャワ人の娘が彼に魅かれる点に、国民統合を強く押し進めていた新体制の意図あるいは時代の風潮を感じる。演劇界出身の監督の本領はむしろ結末部分よりも、劇中劇で主役を演じる息子の苦悩が実生活と劇中で重なりあうメタ構造的な演出部分にあるのだろう。
 シュマンジャヤは様々なジャンルを横断的に次々に撮った野心的な監督だった。映画評論家佐藤忠男氏がインドネシア映画のベストに挙げる下級公務員の悲喜劇「ママッド氏(Si Mamad)」はチェホフを原作としていたためかインドネシアの現実とは違いすぎるとして批評家からの評判は決して高くなかったようである。(佐藤、113-115頁)「無神論者(Atheis)」は主題が神の実在についてだったためイスラム勢力や反共を掲げていた体制を刺激し、製作段階から論議を巻き起こした。敬虔なムスリム青年の日本占領前から敗戦時までの思想遍歴をたどる内容だが、後半部で「戦艦ポチョムキン」の最も有名な「オデッサの階段」場面をいただいている。(JB Kristanto、113)一方、大ヒットを飛ばした「ドゥルの少年期(Si Doel Anak Betawi)」では自身の経験を交えたリアリティが感じられ、続編「モダンボーイ、ドゥル」ではより軽妙さが増すと同時に風刺的な要素も強くなっている。その他の作品、「カルティニ(Kartini)」では歴史劇らしい風格を見せ、従軍慰安婦を主人公とした「欲望の奴隷(Budak Nafsu)」では主人公を輪姦する日本軍人たちを表現主義的に描き、遺作となった「オペラ・ジャカルタ(Opera Jakarta)」では複雑な群像劇をダイナミックに演出している。(佐藤、28-29頁)こうしてそれぞれの作品を短く取り上げるだけでも、手掛けたジャンルが多様であることがわかる。しかも各作品のスタイルが相当に異なっているところが、他の監督との大きな違いであろう。彼が85年に52歳の若さで亡くなったことは国産映画界の大損失であった。
 スハルト政権時代の32年間、製作本数は77年の124本と90年の117本、2回ピークを迎えている。71年から91年までの21年間、50本を下回ったのは75年のみだった。浮き沈みはあるもののコンスタントに国産映画は作られてきたのであり、50年代には極めて貧弱な設備と限られた資本しかなかった国産映画はこの時期に産業化したと言えよう。しかし、90年代に入り民間テレビ放送の本格的開始とアメリカ映画の攻勢により製作本数は急激に減少、スハルトが退陣した98年はわずか4本であった。この時期に国産映画が絶滅寸前のどん底まで落ち込んだのは上記の要因だけではない。映画館でしか見られないものを作ろうと質の低いお色気ものばかり粗製乱造したこと、当時普及し始めたシネコンでは「オシャレな映画」が優先される一方国産の「下劣な映画」はオンボロな二番館三番館でしか上映されなくなったこと、それがますます観客の国産映画離れを加速する、といった悪循環であった。

スハルト退陣後の改革時代 ‐国産映画の復活と新世代の台頭(1999-2011)

 スハルトが大統領の座を退き、検閲制度が緩くなった後も経済危機の後遺症などが原因で製作本数は急増とはならず、2004年になってようやく31本まで回復した。90年代には国産映画の上映に非協力的だったシネコン21グループが国産映画を上映するようになったのも歓迎すべき変化だった。またシネコンでも一般映画館でも夜市などでの巡回映画館でもない、新たな流通形態としてビデオCD(近年はDVD)販売が一般化し、これによって投資家は劇場公開なしでも資金回収が可能となった。こうして年々製作本数は増加し、2010年には87本に達した。
 作品の傾向としては90年代半ばに粗製乱造されたソフトポルノが減少し、代わって若者向け恋愛映画が市場の多くを占めヒットを飛ばすようになった。主な作品は日本でも劇場公開された「ビューティフル・デイズ(Ada Apa Dengan Cinta?) 」、ロングランの後により長いバージョンも上映された「エッフェル、恋に落ちて(Eiffel...I'm in Love)」 、エジプトを舞台とするイスラム風味のメロドラマ「愛の章(Ayat-Ayat Cinta)」 などである。これらのヒットには人気歌手による主題歌や映画原作本の出版などメディアミックスによる宣伝も大いに寄与している。
 恋愛映画と並ぶ有力なジャンルであるホラー映画も毎月のように新作が封切られている。ただ、最近はキョンシーに似ている妖怪ポチョンと、女幽霊クンティラナックを競演あるいは対決させるなど、ネタ切れの様相も呈しているようだ。とは言うものの、お色気要素を強めたり、日本のAV女優小沢マリアらを招聘して話題作りをしたり、あるいは血まみれ惨殺シーンを見せ場とするなど、あの手この手で観客の関心を集めようとするこのジャンルの人気には根強いものがある。映画の原型ともいうべき見世物に最も近いジャンルゆえか、評論家からまともに批評されることはほとんどなかったが、近年は本格的な研究も始まった。(四方田、Veronica Kusuma)例えば、60年代に共産主義に同調し無実の罪で非業の死を遂げた大学生の亡霊が現代に蘇る「赤いランタン(Lantera Merah)」は隠蔽された歴史の回復を主題としている点で、観客に一時的な恐怖を与えるだけの通常のホラー映画の枠を超えていると言える。四方田は「このフィルムが最終的に告げているのは、もっとも深遠なる恐怖とは幽霊の群発的な出現にあるのではなく、かかる幽霊を生み出した社会の全体に政治的に偏在しているという真理にほかならない」(135頁)と結論付けている。
 技術面での大きな変化は21世紀に入って本格化したデジタル化である。芸術派ガリン・ヌグロホ監督の「ある詩人(Puisi Tak Terkuburkan)」 はデジタルビデオの特性をフルに活用し、従来は不可能だった長回しを大胆に取り入れた。ホラー映画やアクション映画においてもデジタル処理が増えている。またデジタル機材の導入は製作コストを比較的安く抑えることも可能とし、小規模な製作スタッフによるインディーズ系の映画作家が登場するようにもなった。
 またここ10年で製作者の世代交代も進んだ。(詳細はコラム参照)90年代初頭に長編デビューし国際的に最もよく知られている前述のガリンに続き、ジャカルタ芸術学院(IKJ)出身の監督やスタッフ、あるいは海外で映画製作を学んだ新世代が映画界の主流となった。彼らの経歴は70‐80年代に活躍した監督の多くが下積みとしての助監督を何年か務めてからデビューし、スタッフの多くが現場からの叩き上げだったのとは対照的である。つまり監督及びスタッフの「高学歴化」が進み、技法的にも70-80年代のような泥臭さは影をひそめ、見かけはスマートな作品が増えていると言えよう。

インドネシア映画はどこへ行く

 以上、駆け足で国産映画の歴史をたどってみた。最後に今後国産映画がさらに発展するために何が欠けており、何が必要とされているのか、考察してみたい。
 第1に興業と配給。90年代と異なり国産映画がシネコン21グループで上映されるようになったことは進歩としても、同グループが国内のスクリーンの8割以上を独占している現状は健全な競争の観点からは決して望ましくない。またスクリーン数自体も2億4千万の人口からすれば非常に少ない。最盛期の90年には6800スクリーンが全国にあったとされるが、その後経済危機やTV放送そして海賊版DVDの浸透によって多くの映画館が廃業に追い込まれ現在は600スクリーンほどである。政府による映画興行振興策なしでは21グループ以外のスクリーン数を増やすのは容易ではないだろう。
 なお、今年初めより海外フィルム輸入関税の値上げを財務省が断行し、文化観光省もこれを支持、これに反発したハリウッド映画配給業者が大作映画の上映をボイコットする異常事態が半年近く続いている。7月末になり、ようやく「ハリーポッター」の最終作が上映される運びとなったものの、あくまでも一時的な措置らしく、完全な解決にはもうしばらく時間がかかりそうだ。政府としては21グループの興行及び配給の独占状態を廃し、海外映画会社にインドネシアでの事務所開設を促して、より自由で健全な競争の実現を目指しているようである。しかしハリウッド大作を市場から締め出したところで、国産映画の観客数が必ずしも増えるわけではなく、むしろ映画館経営者が悲鳴を上げているのが実態である。外国映画と競争できる質の高い国産映画が求められている状況は依然変わっていない。
 第2に製作体制。ジャカルタ一極集中の弊害というべきか、多くの映画はジャカルタの製作会社でジャカルタに住む映画人によって作られている。当然舞台もジャカルタあるいはその周辺になることが多く、結果インドネシア映画といいつつも実はジャカルタ映画ばかりを観客は見せられている。インドネシア同様に多様性に富む中国やインドと比較してみると、この事実はより明確になる。中国では各地に撮影所があった経緯から現在でも地方発の映画が作られているし、世界一の映画大国インドでは州ごとに異なる言語で映画が製作され、地域ごとの独自性が保たれている。もし仮にインドネシアが建国間もない時期に地方ごとに撮影所や製作拠点が官民いずれかによって置かれていたら、独自の「地方映画」がその後生まれていた可能性は必ずしも否定できない。
 無論、地方を舞台とした作品がないわけではない。特にガリン・ヌグロホはフィルモグラフィーを見れば一目瞭然で、地方を舞台とした作品がほとんどを占め、地方語や地方文化を積極的に自作の中に取り入れている。しかし市場を占める大多数の作品はジャカルタが舞台、よくてジャワ島内である。インドネシアが「多様性の中の統一」を国是とするならば、地方文化を地方出身者が映画化し、スマトラをスラウェシをカリマンタンをマルクをパプアを舞台とする作品がもっとあってしかるべきだろう。映画化されていない題材は地方にこそあるのだと思う。
 第3に国外への進出や合作。「ビューティフル・デイズ」や「ザ・タイガーキッド」のように日本をはじめとした国外に売れた作品は確かにあるが、例えば近年国際進出が目覚ましい韓国やタイとは比較にならないほど少ない。国際映画祭に出品される作品もあるにはあるが、有名な映画祭の定番を占める位置には程遠い。例えば直近のアジアフォーカス・福岡映画祭ではゼロであるし、カンヌ・ベネチア・ベルリンの三大映画祭でのコンペ参加は近隣諸国のシンガポール・フィリピン・マレーシア・タイと比べて非常に出遅れている。
 また海外の俳優や技術者の招聘、あるいはヨーロッパや日本からの資金提供などはあっても、製作面で外国会社とがっぷり四つに組んだ合作は非常に少ない。本格的な合作が少なく、海外市場を意識しないことが、結果としてTVドラマとさほど変わらない映画が多数を占めている原因というのは穿ちすぎであろうか。しかし、「愛の章」のようなエジプト人やエジプト社会を否定的に捉えている映画をイスラム諸国へ輸出しようと試みることに、関係者の国際的なセンスの欠如を感じてしまうのだ。
 もちろんガリンのような海外映画祭の常連監督は何人かいるわけだが、まだまだ国産映画界全体で海外進出や合作を積極的に推し進めるような姿勢には程遠い。この点官民一体で映画振興に努め、瞬く間に世界の注目を集めるようになった韓国の事例を大いに参考にしてほしいと思う。
 最後に過去作品の再評価。現存している過去作品はシネマテークに所蔵され、JBクリスタント氏による「インドネシア映画カタログ」も出版(現在はウェッブ公開)されているが、肝心の作品が上映されて人目に触れない限り、それらは存在しないに等しい。残念ながら日本やアメリカのように多くの過去作品がDVDで発売される状態ではないのがインドネシアの現状である。過去作品のDVDが未発売なのは権利問題や需要がないなどの理由が考えられるが、特別上映でもテレビ放映でも構わないからもっと過去作品は広く見直されるべきである。現時点から見てどれだけ稚拙な技法であっても、語り口が遅くても、説明過多であっても、当時の評価が低くても、もっと多くの人に見られるべきであろう。なぜなら過去作品こそ発見の宝庫であり、次世代のインドネシア映画のヒントがつまっているからだ。
 私自身の経験で言えば、単純に風景や登場人物のしぐさが現在とは全然違うなどといった些細なことから、同じジャンルでも時代によって描き方がかなり異なること、当時の時代風潮や風俗が製作者の意図とは関係なく映っていることの発見がとても刺激的である。とりわけ、製作者がインドネシアとは何か、借り物ではない自分たちの独自性は何か、探究した結果が画面から伺える瞬間こそ、インドネシア映画を見ることの醍醐味である。私にとってそうした瞬間とは、「自由の戦士たち」で主人公が愛情と友情の板挟みに悩んだ末に敵側を夜襲する場面であり、「セクシー女中イネム3(Inem Pelayan Sexy 3)」 のパワフルな女中大行進であり、「青空が僕の家(Langitku Rumahku)」でちらりと「国家」が見えるところであり、「天使への手紙(Surat untuk Bidadari)」で主人公が画一的な学校教育に反発する場面である。これらは何気ない場面であったりするが、実は国産映画だからこそ描けた面もあるのだ。外国映画とは違う国産映画の独自性を追求すること。そうした先人たちの過去作品という遺産を一般観客も製作者ももっと生かしてほしいと思う。
 昔からインドネシアには豊富な天然資源があり経済成長の大きな潜在性があると言われてきたが、近年まで掛け声だけに終わっていた感がある。映画にしても同様であろう。足りない部分も少なくないが、その分まだまだ発展する余地は大きい。インドネシア映画のますますの発展を祈念して筆を置きたい。

参考文献
石坂健治編『インドネシア映画祭カタログ』国際交流基金アセアン文化センター、1993年
猪俣良樹『日本占領下・インドネシア旅芸人の記録』めこん、1996年
松岡環『アジア・映画の都』めこん、1997年
四方田犬彦『怪奇映画天国アジア』白水社、2009年
JB Kristanto, Katalog Film Indonesia 1926-2005, Nalar, 2005
Gayus Siagian, Sejarah Film Indonesia, FFTV-IKJ, 2010
Krishna Sen, Indonesian Cinema-Framing The New Order, Zed Books, 1994
CINEMAYA , Autumn 1997 No38, New Dehli

<更新履歴>
2017.12.28 ラベル追加

2017年12月9日土曜日

映画評『カルティニ』(2017年)

チカラン日本人会メールマガジン 「生々流転」vol39に掲載。


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄

第3回 映画『カルティニ』が描いたものと描かなかったもの

 前回に続き今回もインドネシア女性解放運動の先駆者にして国家英雄ラデン・アジェン・カルティニについて、今年4月に公開された映画 Kartini (ハヌン・ブラマンティヨ監督)を手掛かりに、カルティニの実像とフィクションの関係を語ってみたいと思います。まずは映画の紹介から。




2017年版の映画 Kartini ポスター


 カルティニを主人公とした映画は、1982年にR.A.Kartini(シュマンジャヤ監督)が、また昨年2016年にはSurat Cinta Untuk Kartini(アズハル・キノイ・ルビス監督)が、それぞれ製作公開されており、今作で三度目の映画化となります。82年の作品は日本でも映画祭で上映され、その後NHKBSでも放送されました。2017年版はインドネシアではトップ女優の一人と目されるディアン・サストロワルドヨが主演し、製作に時間も予算もかけたことが推察される堂々たる作品でした。

 日本でも単館劇場公開された『ビューティフル・デイズ』(2001年インドネシア公開、原題 Ada Apa Dengan Cinta? )の主演を務めたディアン・サストロは正統派の美人女優、出演作品こそ多くはないものの確かな演技力と美貌、そして人気を考えれば、インドネシアの国家英雄を演じるには正に適役と言えるでしょう。また、劇中でカルティニの実母を演じるのは日本をはじめ海外でもよく知られた国際派にして国民的女優のクリスティン・ハキム、映画内ではカルティニに辛くあたる義母は82年版を監督したシュマンジャヤ監督の娘ジュナル・マエサ・アユ、慈愛あふれる父親はベテラン俳優のデディ・ストモ、可愛い妹二人にはアユシタ・ ヌグラハとアチャ・セプトリアサ、僅かな出番ながらカルティニに決定的な影響を与えた兄にはイケメン男優レザ・ラハディアン。いずれも実力派の俳優がしっかり脇を固めており、観客は安心して物語に身を委ねることができます。



上が実在のカルティニ姉妹。左よりカルティニ、カルディナー、ルクミニ。
下が2017年版で演じた女優たち。
ディアン・サストロワルドヨ、アユシタ・ヌグラハ、 アチャ・セプトリアサ。


 ここで本作の具体的な内容に踏み込む前に、一般論として偉人伝をどのように映像化するか、伝記映画の在り方について考えてみたいと思います。


 過去120年の映画史において、偉人伝はそれこそ無数に撮られてきました。今思いつくだけでも、スティーブ・ジョブズ、サッチャー、ホーキング、チェ・ゲバラ、チャップリン、ガンディー等々、おそらく作品リストを作るとすれば長大になります。近年は技術の進歩もあり、本人そっくりの俳優が仕草や喋り方まで真似て観客を唸らせることもしばしばです。しかしどれだけ実在の人物に似せることに成功しても、彼/彼女の人生に何が起きたか、そして彼/彼女は何をしたか、既に知っている多くの観客を満足させることは容易ではありません。よく知られた挿話をつなぎ合わせただけではただのダイジェスト版になってしまいますし、逆になんでもかんでも描こうとすれば大味である、冗長すぎると酷評されます。特に近現代の人物の場合詳細な伝記が出ていることが多いので、あの挿話が語られるのに別の面白い挿話は何故省略するのだ!と観客から突っ込まれることは避けられません。何より存命中の人物でない限り、私たちは結末を既に知っているわけで、製作者としては最大公約数的な作品を目指すことが多いように思えます。一方、才能ある野心的な監督の場合、時系列をバラバラに組み替えたり、類似の出来事を反復したり、あるいは回想場面を効果的に挿入することで、一般的に知られている偉人の別の一面を浮き彫りにしようとするようです。


 さて、このようなある種の制約がある伝記ものとして、本作はどのようなアプローチを取っているかと言えば、極めてオーソドックスな方法、カルティニの子供時代から結婚するまでを時系列で語っていきます。回想シーンは僅か、語り手の視点が入れ替わることもなく、彼女の人生をよく知らない観客にとっては分かりやすい語り口と言えるでしょう。ヒットメーカーであるハヌン監督らしい、奇をてらわない堅実な演出です。と同時に、私のようなうるさ型の観客も満足させるいくつかの美点を本作は備えてます。


 まず第一に時代考証です。ジャワ文化が高度に洗練された礼儀作法と言語体系を持っていることは有名ですが、本作ではそれらを忠実に再現しています。自分より目上や位の高い人物には拝むような姿勢を取り続け、決して腰を上げてはならない様子などを本作で初めて見た人は少なくないでしょう。また台詞の多くはジャワ語ですが、オランダ人との会話や手紙は勿論オランダ語、早い話インドネシア語字幕がこれほど出てくるインドネシア映画はそうそうありません。私はジャワ文化にもオランダ語にも精通してないので、その正確さをはかることは出来ないものの、映画製作者たちが衣装や作法や言語を忠実に再現しようとしていることは疑いようがなく、観客をカルティニが生きていた時代へタイムスリップさせることに成功しています。


 第二に婚前閉居(ピンギタン)のため行動が制約されていた事実を逆手に取り、いくつかの幻想場面や映画的サスペンスを効果的に挿入、実際には非常に内省的だったと思われるカルティニの一生を十分躍動的なものとして描写して平板さから逃れています。読書に没頭しているうちに物語の登場人物たちが目前に現れ対話してみたり、兄たちの意地悪で外に出られない姉妹が裏をかいて伝言を届ける場面には思わずニヤリとしてしまいます。中でも見事な映画的な処理として成功しているのは、カルティニがオランダ人のペンパルであったステラと言葉を交わす場面ではないでしょうか。姉妹と日本のキモノを浴衣のように着て写真を撮るべくフラッシュが焚かれた次の瞬間、風車のある典型的なオランダの田園風景の中に翔んでいるカルティニ! オランダ留学の夢を持ちながら結局は諦めるしかなく、親友ステラと実際に会う機会もなかった史実を思うと、短いながらももっとも印象的な名場面となっています。


 第三に母と娘の物語として一本筋を通した構成にしたこと。カルティニの実母は身分が低くあくまで妾だったため、幼少期以降は実母を母と呼ぶこと、一緒に寝ることが許されず、父の正妻を母と呼ぶしきりに従う場面を冒頭に置き、終盤は部屋に閉じ込められた娘を実母が救い出し二人だけの対話を通して親子の絆を回復、二人の母同様に一夫多妻を受け入れた後の結婚式では敢えてしきたりに逆らうことで実母への深い感謝を示して本作は幕を閉じます。今は廃れたものの、かつては一大ジャンルだったお涙頂戴の母ものの片鱗を今作は見せると同時に、時代を超えて観客の情感に訴える構成は結果として強い普遍性を獲得していると私は思います。封建主義の擁護ではないかとの批判があることは承知の上で、しかし物語としてはスッキリしており、史実とのバランスもある程度取れていることは評価すべきでしょう。



日本のキモノを着ているカルティニ姉妹。1903年撮影。
当時欧米で流行りのジャポニズム(日本趣味)の波が中部ジャワの
ジュパラにも届いていたのだろうか。


 以上、本作の見どころを数点述べてみましたが、では逆に本作が描かなかったこと、欠けているものは何でしょうか?

 それはナショナリズムであり、或いは植民地支配の実態を示す描写に他なりません。これは昨年の『カルティニへの恋文』と比較すると明確です。後者ではカルティニとオランダ人との短くも重要な対話が浜辺で2回あります。1度目は「原住民は立ち入り禁止」の看板がある浜辺でオランダ人の少女たちに向けて看板の内容を抗議する場面、2度目は彼女のオランダ留学を後押しするはずだったアベンダノン氏から留学の夢を諦めるよう告げられる場面。共に相手はオランダ語を話すのですが、オランダ語が流暢だったはずのカルティニに劇中では敢えてインドネシア語で反論させています。これは嘘っぽいというだけでなく、ナショナリズムの論理をリアリズムよりも優先させた結果と私は解釈しています。率直に言って、『カルティニへの恋文』は強引にフィクションの人物を造形したためにご都合主義が目立ち、映画全体の出来としてはあまり良くないのですが、この二つの場面をもって、ひょっとしたらインドネシア人の民族主義者はこの作品の方を『カルティニ』よりも高く評価するかもしれません。その位、分かりやすいナショナリズムは希薄なのが本作の特徴です。


 何よりもここには「良きオランダ人」しか登場しません。ジャワ戦争がとうの昔に終結し、オランダ植民地支配が既にどっぷり根を下ろしていたのが当時の中部ジャワとは言え、カルティニも家族もその周囲の人間も間接統治とは言え、オランダによる支配に何の疑問も持っていないように描かれ、その矛盾が暴かれることもありません。あまりにもオランダ人たちを物わかりの良い、地元の文化を尊重する、親切な紳士淑女然と描いている点はやや不自然と指摘しなくてはなりません。何もオランダ人を悪人と描写していないから、本作はダメだという立場を私は取りませんが、ただ死後まとめられたカルティニの書簡集を倫理政策推進の上でも利用したオランダ政府、何よりカルティニに勉学の夢を吹き込みながら最終的には梯子を外した疑惑が濃厚なアベンダノン夫妻、彼らへの言及や描写が全くなされていないことには納得のいかないものを感じています。ここで例えば同時代人のチュッ・ニャ・ディンがオランダにとってどのような存在であったかを考えてみれば、カルティニがオランダにとって都合の良い存在であったことは否定できないでしょう。


 ただカルティニの名誉のために補足しておけば、彼女はオランダ語を通じて近代的精神を身につけジャワ社会の因習に厳しい目を向けましたが、決して盲目的な欧化主義者ではなく、むしろオランダ人の偽善ぶりをあけすけに批判もしてます。オランダ語を修得し自己を客体化することが出来たからこそ、自らが属する社会の美点も欠点もよく理解出来たわけです。本作に出てくる挿話の一つ、兄からは田舎くさいと馬鹿にされていた木彫りの価値を認め、職人たちに博覧会に出展させる作品を作らせたことは正しくカルティニによる「伝統の再発見」でした。


 本作が描いたこと描かなかったことをこうして列挙してみて改めて気づくのは、カルティニという一人の聡明な女性が相反する考えや価値観を同時に持つためにその狭間で悩み苦闘する姿です。それは近代ゆえ、植民地支配下のジャワに生まれたが故の苦悩ではあります。しかし今現在も女性が直面する結婚や進学や男女不平等などの諸問題に引きつけてカルティニの一生を振りかえってみれば、彼女は我々観客の身近な隣人ではないでしょうか。


 彼女の人生は僅か25年でしたが、その書簡は今なお我々にインスピレーションを与え続けています。彼女の一生をどのように解釈するか、本作はあくまでその一つであり、より多様な解釈が本作の観客の中から生まれてくることを私は期待したいと思います。


 さて次回ですが、対照的な二人の女性国家英雄に続き、「共和国の父」と呼ばれる神出鬼没の共産主義者タン・マラカを取り上げる予定です。では、また来月!


<参考文献>

Seri Buku Saku TEMPO: Kartini
http://www.penerbitkpg.id/book/seri-buku-saku-tempo-kartini/

<YOU TUBE>
カルティニ(2017年)予告編
R.A.カルティニ(1982年)
カルティニへの恋文(2016年)

<映画データ>
原題 Kartini
劇場公開日;20174月19
製作国;インドネシア
言語;ジャワ語、オランダ語、インドネシア語
スタッフ;製作 ロバート・ロニー
     監督・脚本 ハヌン・ブラマンティヨ
     共同脚本 バグス・ブラマンティ
キャスト  ; ディアン・サストロワルドヨ、アチャ・セプトリアサ、アユシンタ・ヌグラハ、デディ・ストモ、ジェナル・マエサ・アユ、クリスティン・ハキム、レザ・ラハディアン


<更新履歴>
2017.12.12  見出し削除、掲載メルマガ明記、参考文献追記
2018.1.6  ラベル変更

2017年9月20日水曜日

映画評『チュッ・ニャ・ディン』

チカラン日本人会のメールマガジンに連載(予定)の原稿です。掲載日は未定。


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
第1回 インドネシア映画『チュッ・ニャ・ディン』


(ビデオCDジャケット、旧綴りのTjoet Nja' Dhien)

チカラン日本人会メルマガ編集責任者の宮島さんの要請で、今回からインドネシアを知るための本や映画についての連載をすることになりました、チカラン在住の轟英明(とどろき・ひであき)と申します。インドネシアには2002年から定住、チカランには2008年末から住んでます。私はインドネシアの専門家(インドネシアニスト)ではないので、後日その筋の方から非難されるのではないかと内心ビクビクしてますが、清水の舞台から飛び降りつもりで、私が今まで読んできた本や観てきた映画などについて、未読未見の方にも分かりやすいように紹介してみたいと思います。いつまで続くか分からないこの連載を読まれた読者の中で、インドネシアについてもっと知りたい調べたいという方が出てきていただければ望外の喜びです。

さて、記念すべき第1回は私にとって非常に思い入れのあるインドネシア映画『チュッ・ニャ・ディン』について。簡単に言えば、私の人生を変えてしまった映画です。この映画を見ていなかったら、多分私は今インドネシアに住むことはなかったかもしれません。この映画の何が私を惹きつけたのか、それについてお話します。

映画の舞台は19世紀末から20世紀初頭のスマトラ島西北端のアチェ。多くの日本人にとっては、13年前のインド洋巨大津波で甚大な被害を蒙った土地として記憶されていると思います。インドネシアという国家が誕生するよりも数十年も前、赤道直下の群島の各地では植民地化を目論むオランダに対する闘争が繰り広げられてましたが、その中でも最大最長の規模となったのがアチェ戦争でした。戦争開始から終結まで実に40年もの長きにわたり、この映画の主人公であるチュッ・ニャ・ディンCut Nyak Dhienは有力なウレーバラン(貴族)出身の女性で、アチェ戦争(アチェ側から見ればオランダ戦争!)が膠着状態に入って以降、オランダ軍をゲリラ戦で悩ました、傑出した女性指導者でした。よって、この映画はジャンルとしては「戦争映画」「民族主義映画」もっと言えば「愛国映画」に分類されうるでしょう。映画では彼女が二番目の夫トゥク・ウマルと共にオランダに叛旗を翻し勇猛果敢に戦うも、幾多の裏切りに合い、最終的にはオランダ軍に囚われの身となるまでを描いてます。

(左 主人公チュッ・ニャ・ディンを演ずるトップ女優のクリスティン・ハキム。製作公開当時32歳)

しかし、実際に映画を見てもらえれば分かるのですが、この映画は非常に地味な作りでおよそ派手さがありません。典型的な「アートハウス映画」「芸術映画」とも言えます。ストーリーがシリアスなだけではなく色調も暗く、しかも終盤に近づくにつれてますます観客の気分を暗くさせるような展開。多くの観客を純粋に楽しませるのではなく、内省に向わせる作品なので、派手な戦闘シーンを期待して見ると肩透かしをくらうでしょう。

...ここまで私の文章を読んで、この作品に興味をなくした方もきっといるとは思います。なんだ、暗くて重い映画なのかと。ただ、私がこの映画を初めて見た時に感じたのはそうした重さすら吹き飛ばす、ある種の衝撃でした。誇張ではなく、異文化との遭遇。日本で劇場公開された時に岩波ホールで見たのは四半世紀以上も前で、若くて無知だったせいもあるだろうとは思いますが、当時の私は何に衝撃を受けたのか?

物語が終盤へ進むに連れて、主人公は白内障で目が見えなくなり、オランダ軍に対しても劣勢となります。彼女の副官で右腕のパン・ラオッはオランダ軍に投降して自分が慕うリーダーの保護を要請、あえて裏切り者の汚名を着ようとします。もはや逃げられないと悟った主人公は、雨の止まないジャングルの中で、一人の孤児と共にオランダ軍を待ちます。指導者としての威厳を失わず、ただクルアーンを読み続ける老女に圧倒されるオランダ軍将校。彼女の身体が心配なパン・ラオッは涙声で彼女を説得しようとしますが、その時。

「去れ!!!」

アチェの短剣レンチョンでかつての部下を刺すチュッ・ニャ・ディン

「お前はこれほど長い期間私と一緒に闘ってきたのに、この闘いを全然理解してなかった。それこそが私の敗北だ...」

囚われた彼女は西ジャワのスメダンへ流刑され、その地で亡くなったことを伝える字幕でこの叙事詩的映画は幕を閉じます。

今こうして映画のラストシーンを書き起こしてみてやはり感じるのは、およそ日本の時代劇映画あるいは戦争映画とは全く異なるヒロイズムのあり方です。もちろんこの場合は史実に基づいているとはいえ、おそらく日本でこのような物語が作られるとすれば、主人公は自害切腹するなり、或いは精一杯の物理的抵抗をするか、又は部下の心情を思いやって泣く泣く投降、といった展開になるでしょう。しかし、この映画の主人公はイスラーム信仰を元に異教徒と戦い(そもそも日本にはこうしたジハード型の話があまりない)、敵に決して屈さないだけでなく、自分の身を案じた腹心の部下ですら決して許さない峻厳さを観客に見せるのです。

Pergilah(去れ)!!! という言葉が発された時、私は強烈な衝撃を受けたのでした。一体、何なんだ、この厳しさは?神への信仰?自尊心?民族の誇り?

なにより、クルアーンの章句をただ唱えながら、オランダ人の言葉に決して耳を貸さない主人公の姿は、誤解を恐れずに言えば、ほとんど狂信者に近いものがあり、畏怖の念を私に抱かせました。と同時に口当たりの良い甘い砂糖菓子のような異国趣味ではない、簡単な咀嚼を許さない「異文化」を当時の私はこの映画から確かに感じ取りました。

安易な感動などではない、かと言って全く理解不能というでもなく、映画鑑賞後もまるで「異物」を飲み込んだような気分はその後も続き、インドネシアについて、アチェについて、イスラームについて、そして何よりチュッ・ニャ・ディンという「国家英雄」について、もっと知りたい調べたいという気持ちが強まり、映画鑑賞から5年も後でしたが、バンダアチェにあるチュッ・ニャ・ディン博物館を訪問したのでした。またそれから更に数年後には、主演女優のクリスティン・ハキムさんにもお会いして御礼を直接述べることができました。

その後いろいろ紆余曲折があって、今はこうしてチカランに住んでいるわけですが、もしこの映画を観ていなかったら、おそらく私はインドネシアにこれほどのめり込むことはなかっただろうなと強く確信しています。そうした意味で、この作品は間違いなく私がインドネシアに関わるきっかけを作り、そして人生を変えた映画となりました。



 (中央 泣き崩れるチュッ・ニャ・ディン本人。オランダ軍に囚われた後の写真。純粋なる敗者の映像。)

次回はフリーペーパー「+62」No11 (2017年8月号)に掲載された「私の好きなインドネシアの本」の続きを予定してます。それでは、また来月!

<YOUTUBE>
https://www.youtube.com/watch?v=BwHVTg7s4IM
https://www.youtube.com/watch?v=SAwotI6iGnA

<映画データ>
原題 ; Tjoet Nya' Dhien
日本語題 ;チュッ・ニャ・ディン
製作公開年; 1988年
製作国;インドネシア
言語;アチェ語、インドネシア語
日本公開日;1990年8月25日
上映劇場;岩波ホール
スタッフ;製作 アルウィン・アリフィン
     監督及び脚本 エロス・ジャロット
     撮影 ジョージ・カマルッラ・プナタ
     音楽 イドリス・サルディ
キャスト;クリスティン・ハキム、スラメット・ラハルジョ、ペトラジャヤ・ブルナマ、
     イブラヒム・カディル 

2017年8月24日木曜日

+62への寄稿 私が薦めるインドネシアの本 5冊

ジャカルタで発行されている月刊フリーペーパー「+62」のインドネシア本特集に寄稿しました。以下はオリジナル原稿。未修正の箇所がありますが、備忘録としてアップしておきます。

2017年7月18日(火)
私が薦めるインドネシアの本 5冊

 +62 編集長池田さんのツイートに便乗して、自分の好きなインドネシア本を選んでみたら20冊になってしまった。さすがに20冊全部を紹介するのは多すぎるので、ウンウン唸りながら、歴史というテーマで以下5冊に絞ってみました。レアなセレクションだなあと我ながら思いつつ、本の内容については自信があるので、機会があれば+62読者の方々にも是非読んでいただきたいと思います。

 まずは私のインドネシア観に決定的な影響を与えてくれた故・村井吉敬さんの著作二冊から。処女作でインドネシア初心者には特に強く薦めたい『スンダ生活誌  変動のインドネシア社会』 (現在は岩波現代文庫から『インドネシア・スンダ世界に暮らす』として復刊)は先月号で西宮奈央さんが紹介されていたので、ややマニアックながら個人的に思い入れのある『赤道下の朝鮮人叛乱』及び『シネアスト許泳の「昭和」』の二冊を合わせて挙げます。




 二冊とも村井さんの人生の伴走者だった内海愛子さんとの共著。アジア太平洋戦争中は「日本人」だった朝鮮人たちが日本軍占領期とその後の独立革命戦争下のインドネシアでどのように生き、刑場の露と消え、あるいは戦場で死んでいったのか。日本人インドネシア人そして朝鮮人の多くからも忘れられた抗日反乱、理不尽な「戦犯」裁判、そして「親日派」映画人の一生を、数少ない資料や証言を元に立体的に浮き彫りにしてくれる良書です。



 私がインドネシアに片足を突っ込むようになった頃、アジア映画の文献を乱読していた四半世紀前に知って以来、三つの名前を持つ映画監督許泳(ホウ・ヨン)は何故かずっと気になる人物でした。日本朝鮮インドネシア各国で活躍したとは言っても、彼が残した作品は映画史上の傑作とはならず、むしろ凡作の部類です。しかも日本軍政下のジャワでは偽ドキュメンタリー映画を監督、堂々たる「親日派」朝鮮人、今日的価値観からすれば紛れもなく売国奴と非難される怪しい人物と言えるでしょう。しかし、彼にやや同情的な共著者の文章を読み進めるうちに浮かんでくるのは、何が何でも俺は映画を撮る!という日夏英太郎としての図太さであり、敗戦時にそれまでの態度をコロッと翻すホウ・ヨンとしての後ろめたさであり、インドネシア独立後には俺の場所はここしかない!と異国に残留するドクトル・フユンとしての楽天性(日本の妻子を忘れてますが)といった彼のしたたかさと映画にかける一途さです。多分私が彼の人生に心惹かれるのは、時代の制約があっても、平凡な才能しかなくても、人は何事かを成しえるし、何かを後世に残しえることを教えてくれるからでしょう。彼の遺作となった『天と地の間で』は、技術的に稚拙なところがあるものの、混血の主人公の人物造形には彼自身の人生が投影されているように見えて、感慨深く感じられます。

 この二冊は実質的には二部作なので、是非合わせて読まれることをお奨めします。惜しむらくは共に絶版で、その後発見された資料や映画の内容を追記しての完全版での復刻が待ち望まれるところです。更に関心のある方は遺児である日夏もえ子さんの『越境の映画監督 日夏英太郎』も読んでみて下さい。

 さて、三冊目。日本人のインドネシア専門家の中では専門書から一般書まで幅広く書かれている倉沢愛子さんのインドネシア語著作『Masyarakat dan Perang Asia Timur Raya』を推します。これも上記2冊同様、アジア太平洋戦争関連書ですが、元になっているのは2002年に講談社現代新書として出版された『「大東亜」戦争を知っていますか』です。元々は倉沢さんがご自身の高校生の娘を読者に想定して書かれたこともあって、文章が平易で非常にわかりやすいのが特徴です。そして昨年出版されたばかりのインドネシア語版には、この間に朝日新聞社の倉庫で発見された未発表の写真が多数追加収録されており、貴重な資料でもあります。



 内容は多岐にわたり、開戦前の情況に始まり、対日協力者の系譜、軍に振り回された在留邦人たち、経済政策、ロームシャや慰安婦などの戦時動員、宗教勢力への接近と監視、日本へ派遣された南方特別留学生、初等教育の充実、プロパガンダ映画の製作上映等々、マクロとミクロの視点両方からあの時代を振り返ることができる充実した内容です。インドネシアの歴史教科書がやや無味乾燥で、インドネシア各地の出来事のみに限定されているのと比較すると、短い記述ながらもあの時代を生きた人たちの人生がうかがえ、インドネシア以外の東南アジア各国の当時の状況についてもわかる本書は、インドネシア人の学生にも是非薦めたい書籍と言えます。インドネシア語がある程度できる方は、日本語版と照らし合わせながら読めば語学の学習書としても使えるでしょう。

 四冊目は少し視点を変えて『インドネシア イスラーム主義のゆくえ』。著者の見市建さんはご存知じゃかるた新聞にも寄稿されている、インドネシアのイスラーム専門家。本書の出版はユドヨノ政権誕生直前の2004年で、当時は2002年のバリ島爆弾テロ事件の記憶も生々しく、「寛容」で「穏健」とされたインドネシアのイスラーム勢力が急速に過激化しているとの印象論が広く流布されました。こうした一面的な見方を著者は「少数派の急進派のみに注目しても政治や社会の動態はわからない」として退け、より広い文脈でインドネシアにおけるイスラーム運動の歴史とイスラーム復興の実態を分析しています。暴力の系譜と思想史と運動史、そして町にあふれるポップなイスラーム的「商品」を関連づけて論じた本は、当時まだ多くはなく、そうした意味でも画期的な本でした。この間、爆弾事件の主犯とされた過激派組織ジャマーア・イスラミヤは弱体化し、貧困層の希望の星でクリーンと見られていた正義党は汚職に手を染める普通の政党になってしまい、何よりISISが中東で台頭するなど状況は激変したので、本書の記述にも多くの手直しが必要かもしれませんが、分析の枠組みそのものは依然有効だと思います。「イスラームないしはムスリムを動態的に把握する必要がある」との著者の主張に深く同意します。

 インドネシアで爆弾事件や自爆テロ未遂が報じられるたびにテロの原因を知りたいと感じる日本人は大勢いると思いますが、そうした方にはまず見市さんの一連の著作と論文をじっくり読まれることをお薦めいたします。テロ事件の直接的な原因はわからないにせよ、事件の背景を紐とくには歴史を知るのが一番なのです。急がば回れ。

 最後はガラッと趣向を変えて、1931年から1965年まで断続的に雑誌に連載された漫画の復刻版『Komik Strip Pertama Indonesia ; Put On Edisi Pantjawarna』を挙げます。

 

現在は日本スタイルの漫画がインドネシア市場を席巻してますが、戦前から戦後しばらくはアメリカンスタイルの漫画が日本同様主流でした。四コマ漫画ならぬ6コマ漫画で、柔らかなユーモアがコマとコマの間から漂ってきそうな作風です。作者はインドラマユ生まれの華人Kho Wan Gie。Put On は主人公の名前ですが、漢字にすると「不安」でしょうか。青年というよりは中年で、小太りの中国系の彼が巻き起こす珍騒動が多くのパターンですが、中には時の政権のプロパガンダ的な内容もあったりします。この漫画が面白いのは、台詞にオランダ語や福建語やスラングが多数入り混じり、当時のジャカルタ都市部のファションや風俗がよく描かれている点でしょう。70年代に一世を風靡したシラット漫画では登場人物たちが折り目正しい正調インドネシア語を話していて違和感ありありだったのですが、Put On では登場人物たちが生きている言葉を使っているのが非常に印象的で、ちょっとした言葉の勉強にもなります。



 以上、読者諸兄の皆様の読書の一助になれば幸いです。


<更新履歴>

2017.12.28 ラベル追加、タイトル変更
2018.1.7  画像追加