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2017年11月23日木曜日

書評『カルティ二の風景』土屋健治著

11月27日配信のチカラン日本人会メールマガジンに掲載されました。先日アップした内容と基本変わらず。


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
第2回 土屋健治著『カルティ二の風景』と画家・森錦泉



 前回は私にとって強烈な「異文化」を感じさせ、その後アチェそしてインドネシアへといざなうきっかけとなった映画「チュッ・ニャ・ディン」について語りました。第2回目の今回は、チュッ・ニャ・ディンと同時代人であり彼女同様インドネシアの国家英雄でもある、インドネシアにおける女性解放運動の先駆者ラデン・アジェン・カルティニについて、一冊の本と一人の日本人画家を通して語ってみたいと思います。

 チュッ・ニャ・ディンの名前を知らないインドネシア在住日本人の方でも、カルティニの名前を耳にしたことがあるという人は結構多いのではないでしょうか。インドネシアで最も正統派と目される婦人雑誌のタイトルはKartini ですし、毎年4月21日の彼女の誕生日は「カルティニの日」として全国各地の公共機関や学校で様々なイベントがおこなわれます。ただ、「カルティニ」と日本語でネット検索すると、なぜか広島の某ホテルが上位にヒットしてしまうのは非常に残念なのですが...

 しかし、ことほど左様に著名な国家英雄でありながら、カルティニの日が女性たちの単なるファッションショーになっている様子を見聞すると、カルティニが目指した理想、実現したかった夢は本当にインドネシアでしっかり理解されているのか、疑問に思わないでもありません。ところで、カルティニは一体どんな業績を生前に残したのでしょうか?
 
 実は、彼女自身は生前大きな業績を残したとは言えず、むしろ大事を成す前に産褥熱のためわずか25歳で早世しています。父親がジュパラ県の県知事という上級貴族の階級に属する彼女は、生前自宅に女性のための学校を開設したものの、規模としては小さく、また彼女の死後閉鎖されています。結婚前のしきたりとして長く閉居の状態にあった彼女がしたこととは、オランダ人のペンフレンドや庇護者に向けて、母語ではないオランダ語を駆使してただひたすら手紙を書き送ったことでした。彼女自身の身の回りの出来事はもちろんですが、女性の地位向上、古い因習への批判、教育の重要性などを溢れるばかりの情熱で書き綴りました。

 彼女の死後に出版された、それらの手紙をまとめた書簡集『闇から光へ』によって、彼女はまず宗主国オランダによって、その近代的啓蒙精神が顕彰され、やがてインドネシア人の民族主義者たちからもその先駆性が評価され、スカルノ政権下の1964年に国家英雄に叙されたのでした。反植民地闘争や民族独立運動や独立戦争の貢献が評価されて国家英雄に列せられた人たちとはかなり異なる、非常にユニークな英雄であることは間違いないでしょう。
 
 そして、土屋健治さんの『カルティニの風景』は、19世紀半ば以降のオランダ植民地社会で成立した「麗しの東インド」と呼ばれる一連の風景画を入り口として、国家英雄カルティニと彼女の死後に成立したインドネシアという「想像の共同体」について、インドネシア人の心象風景を一世紀に及ぶ長いスパンで論じている本です。もっと端的に言えば、日本語で書かれたインドネシアについての本の中で、これほど対象への愛情が行間から溢れ出ているものを私は他に知りません。フリーペーパー「+62」の編集長である池田華子さんが以下のサイトで書かれているように、「こちらが思わず引いてしまうほどの土屋先生の熱情とインドネシアへの思いが、ひりひりするような熱さ」で伝わってきます。本書は地域研究が文学に昇華した本とも評されており、インドネシアについて知りたい学びたいという人には自信を持ってオススメしたいと思います。専門的な内容を扱っていながら、学術的な用語や言い回しは殆どなく、長い時間軸においてインドネシアを理解するのにこの本ほど分かりやすく、また読みやすいものはなかなかありません。

  誤解を恐れずに書くならば、この本は地域研究者であった土屋健治さんの信仰告白の書であり、自分語りの本でもあります。 カルティニと彼女が後世に与えた影響を論じているようでいて、実のところ土屋さんは自身のインドネシア研究遍歴と研究対象への愛情を隠すことなく書いているからです。学術書としては問題のあるスタイルかもしれませんが、一般書のスタイルとして私は断固支持します。異文化や外国社会に接近する方法に正解というものはないと思いますが、土屋さんが本書で取ったアプローチは今もって有効であり、我々のような非専門家も大いに参考にすべきではないかと思うのです。

 しかしながら、私が本書に感じた疑問点についても、ある日本人画家の存在を補助線として以下指摘したいと思います。

 支配者として原住民の上に君臨したオランダ人たちが自分たちの邸宅の応接間の壁に飾るところからこれらの風景画は開始されたと本書では述べられてますが、それらを描いた画家たちのことについてほとんど述べられてないのはなぜなのでしょうか? もともとこれらの風景画を描いていたのはオランダ人でしたが、20世紀に入ると土着のインドネシア人や華人の風景画家も現れ、彼らの中から当時の時代風潮、すなわちインドネシア民族主義や独立運動に共鳴したインドネシア近代美術運動が生まれたからです。具体的には1936年にインドネシア画家協会(プルサギ)が結成されており、その理論的中心人物だったスジョヨノは、支配者であるオランダ人を主な顧客とする「麗しの東インド」(ムーイ・インディ)と称される風景画について、植民地支配の実態を覆い隠すものであり、そこに暮らす人々の息遣いが感じられないとして、厳しく批判しました。インドネシアの民族主義運動を研究テーマとされた土屋さんがプルサギやスジョノに全く言及されていないのは、美術史が『カルティニの風景』のテーマではないとしても、率直に言って非常に奇異な感じがします。おそらく本書の基調であるノスタルジアについて語るには、それについて触れることは一貫性に欠ける、まとまりを欠くと判断してのことかもしれませんが...

 そして風景画を得意とした画家の中には日本人の画家もいたことを土屋さんはご存じだったのでしょうか? 同時代の日本では無名ながら、いまなおネット上のオークションでその名前を確認できるその画家の名前を森錦泉(本名、森吉五郎)と言います。彼が絵画修行のためにパリに赴く途中でジャワに上陸したのが1913年、一方カルティニが亡くなったのは1904年ですから二人が交錯することはなかったものの、限りなく同時代、見ていたジャワの風景はほぼ同じであったと言ってもあながち間違いではないでしょう。


晩年の森錦泉

 森は1920年代に中部ジャワのウォノソボで写真館を開きながら風景画を描いていたようで、おそらくそれよりも前にスラバヤにいた際にはのちに初代大統領となる少年スカルノに絵画の手ほどきをしていたと森の長女は証言しています。日本軍政期に森は日本軍の通訳だったため、戦後は収容所に入れられて日本へ強制送還、しかしスカルノへの嘆願書が功を奏して1956年にインドネシアへ戻りマゲランで没しています。森については記録があまり残っていないため詳細は不明なものの、その経歴から彼がジャワの地を深く愛していたことは確かでしょう。かつてはインドネシア人画家たちによって否定的な評価を受けた「麗しの東インド」ですが、それらの作品がインドネシア近代美術の礎になったことは事実であり、森の作品「スンビン山の眺め」は現在福岡の美術館に収蔵されています。

森錦泉夫妻(撮影年不明)


 彼が風景画として残した風景が、カルティニが、スカルノが、そして土屋健治さんが理想としていたものと同じだったのか、あるいは異なるのか、それは今となっては誰にも分かりません。ただ、「麗しの東インド」の雄大な風景画の中では人の存在がほとんど認識されないくらい小さな存在で風景に溶け込んでいるように、民族や出身に関係なく、安易なナショナリズムに回収されない形で、これらの風景が多くの人たちにこれからも愛されればと私は願ってます。

 カルティニについて書くつもりが、だいぶ脱線したようです。次回は今年の4月に劇場公開された映画Kartiniを中心に、カルティニの生涯と彼女が目指した理想について語りたいと思います。ではまた次回!

【参考】
「+62」編集長池田華子さんの書評
https://plus62.co.id/archives/12111

スンビン山の眺め  森錦泉
https://www.google.com/culturalinstitute

『カルティニの風景』土屋健治 めこん 
http://www.mekong-publishing.com/books/ISBN4-8396-0058-9.htm


※ 本稿を執筆するにあたり、大坪紀子さんより貴重な資料のご提供をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。