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2017年12月28日木曜日

インドネシア映画コラム7本 日本とのつながり、女性映画人など

先日アップした「インドネシア映画の過去・現在、そして可能性」の補足コラム。
謎の日本人女優タケウチ・ケイコについてはレコードを出していたことも判明。また1966年の政変後、67年か68年には日本映画の輸入がパッケージでおこなわれていたとの新聞報道も見かけた。日本とインドネシアの映画界芸能界の繋がりは薄い関係ながら戦後も続いたようで、対日観の変遷の点からも調査研究が必要と思われる。


コラム1 三つの名を持つ映画監督 ドクトル・フユン(1908-1952)


 ドクトル・フユンこと日夏英太郎こと許泳(ホ・ヨン)の複雑な人生は映画やTVドラマの原作になりうると私は思っているが、実現にはかなり困難が伴うことも感じている。朝鮮出身の彼は日本、朝鮮、インドネシアで映画製作をおこなったものの、傑出した作品を後世に残したわけではなく、むしろ「売国奴」や「戦犯」として告発されてもおかしくない作品も撮っているからだ。当時の内鮮一体政策に沿った劇映画「君と僕」しかり、連合軍捕虜を人道的に処遇していることを訴える(やらせ)ドキュメンタリー「豪州への呼び声」しかり。


 しかし彼の足跡を追ってみると、彼を突き動かしていたのは当時の限られた条件下で何とかして映画を撮りたい、ただその一心だけだったのではないかとも思える。現存している「天と地の間に」は国産映画初のキスシーンを含んだゆえに検閲されたが、独立戦争下でインドネシア側につくべきかオランダ側につくべきか迷う主人公は監督のフユン自身を投影しているようにも見えて興味深い。朝鮮出身のある意味平凡な映画人であった彼がどうしてドクトル・フユンとしてジャカルタで亡くなったのか、その足跡をたどることは国ごとに分断されがちな映画史を乗り越える視点を今日でもなお提供してくれる。もっと知られていい映画人であろう。

 なお、興味のある方は日夏英太郎の遺児、日夏もえ子さんによる以下のホームページ及び書籍を参照されたい。
http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/

コラム2 インドネシア映画の父 ウスマル・イスマイル(1921‐1971) 
 
 言わずと知れた「インドネシア映画の父」。独立革命戦争後にプリブミ系製作会社プルフィニを起ち上げ、新興国家インドネシアのアイデンティティを確立するために様々なジャンルの映画を監督した。代表作に「血と祈り」「夜を過ぎて」「賓客」「三人姉妹」「女子寮」「自由の戦士たち」「芸術家の休暇」「ビッグ・ビレッジ」など。私が見たのは監督作33本のうち5本にすぎないが、どの作品でも印象的だったのはリアリズムとロマンスの見事な融合であり、スマートな音楽の使い方であり、緩急自在な語り口だった。

 特に50年代を通じて最もヒットした映画といわれる「三人姉妹」は魅力的な女優たちと甘美な歌が今見ても実に素晴らしい。その一方、ナショナリズム高揚期の雰囲気が濃厚に漂っているのもウスマル作品の特徴といえる。そうした視点でインドや中国、他の東南アジア諸国の同時期の映画と見比べてみると、また新たな発見があるのではないかと思う。

コラム3 多様性を追求する女性監督 ニア・ディナタ(1970-)
 
 スハルト退陣後の改革時代を代表する女性映画人の一人。ジェンダーやマイノリティやエスノシティの問題及び視点を国産映画に本格的に取り入れた功績は大きい。長編デビュー作「娼館」は中国系インドネシア人を主人公とし、しかも肯定的に描写したおそらく初の国産映画。2作目「アリサン!」では道化ではないゲイを登場人物として設定し、3作目「分かち合う愛」では多妻婚を様々なケースから描いた。女性問題のドキュメンタリー映画製作やキッズ映画祭運営にも関わり、劇映画プロデュース最新作はニューハーフのヒーロー(ヒロイン?)が活躍するアクションコメディ「マダムX」。

 ニア作品からうかがえるのは常に多様な視点を観客に提示しようとする姿勢だろうか。女性問題を訴える場合においても、差別の現状を直接告発するよりは一歩引いた視点を採用し、さらに別の事例を並列させることが多い。ジョコ・アンワル監督の「ジョニの約束」では自己パロディのような役を楽しそうに演じているのが印象的であり、今後も「女性映画」のジャンルにとどまらない活躍が期待される。

コラム4 初めにイメージありきの芸術派女性監督 アン・ナハナス(1960-)
 
 スハルト時代から短編映画で抜きん出た才能を示しており、長編デビュー作「囁く砂」をNHK製作、クリスティン・ハキムとディアン・サストロワルドヨ主演で2001年に発表。ブロモ山周辺の荒涼たる風景を主な舞台とする母娘の物語をシュールなタッチで描いた。イラン製児童映画に影響をうけたとおぼしき2作目「旗」は、小学生たちが下町でインドネシア国旗を探しまわる物語。3作目「写真」は地方都市を舞台に、滅びゆく写真屋の中国系主人とシングルマザーのカラオケ屋ホステスとの交流を描く。

 いずれも地味なストーリーの芸術映画だが、画(イメージ)への執着は第1作の冒頭シーンから明確にあった。ストーリーよりもイメージ先行の映画監督と言える。「写真」においても終盤のショッキングな場面を初めに構想していたことは間違いないだろう。決して大衆受けする内容ではないが、早撮りで粗製乱造気味の国産映画界においては貴重な存在。近年はプロデューサー業に専念している。

コラム5 芸術と娯楽の境目を狙う敏腕女性プロデューサー ミラ・レスマナ(1964-)
 
 改革時代に入って次々に話題作ヒット作を連発するまさに「台風の目」と言っていいプロデューサー。自身が立ち上げたマイルズ・プロダクションを拠点とする。児童ミュージカル「シェリナの冒険」、日本でも劇場公開された青春ロマンス「ビューティフル・デイズ」、60年代活動家の伝記「ギー」、ベストセラーが原作で2008年に記録破りの大ヒットとなった教育的啓蒙映画「虹の戦士たち」などが代表作。一般観客の支持だけでなく批評家からの評価も高く、国際映画祭での上映も多い。一般観客にわかりやすい語り口で、且つ一定のクォリティを維持した作品を次々に送り出している。
 
 彼女自身はインタビューで常に興行成績を気にしているが、金儲けのための映画は作らないと明言しており、市場で多数を占める低予算のホラーものや安直な若者向けラブストーリーには今後も手を出さないと思われる。次回作はプラムディヤ原作の「人間の大地」。今まで以上に国内外から注目を集めるだけに製作には難航が予想され、プロデューサーとしての真価が問われるだろう。

コラム6 幻の日=イネ合作映画「栄光の影に」
 
 日本の、というより世界の怪獣王と言えば誰でも思い浮かべるゴジラ。しかし、ゴジラの誕生にインドネシアが関係していたことを知る人はインドネシア研究者においては少ないのでは?

 実はインドネシアと日本の合作映画「栄光の影に」製作が中止されたために東宝の映画プロデューサー田中友幸によって急遽企画されたのがゴジラであった。「栄光の影に」は独立革命戦争に参加した日本兵を主人公とした物語だったらしい。50年に公開されヒットした「暁の脱走」と同キャスト(池辺良、山口淑子)同スタッフ(黒沢明と盟友の谷口千吉監督)、インドネシア側はウスマル・イスマイルが協力する予定だったが、当時は日イネ間の賠償問題が解決していなかったためインドネシア外務省がビザを発給せず製作中止となった。もしこの映画製作が順調に進んでいた場合、ゴジラは誕生しただろうか。核の脅威が現実のものであり戦争の影を引きずっていた当時の世相を考えると、怪獣映画の傑作ゴジラは遅かれ早かれ誕生しただろう。それだけに初の日イネ合作映画製作が頓挫したことは残念でならない。

 なお、51年には市川昆監督の「ブンガワンソロ」が公開されている。こちらはインドネシア人を日本人俳優が演じているが、ちゃんと俳優たちにインドネシア語をしゃべらせている点、日本人視点のオリエンタリズム映画として興味深い作品である。また「モスラ」で小美人が歌う歌がインドネシア語であることは有名。ただし最近のインドネシア人にはあまり聞き取れない模様だ。

コラム7 インドネシア映画は混血映画?
 
 本格的な国産劇映画の誕生をオランダ時代とするか、あるいは独立後のプルフィニ設立後とするか、評者によって意見は分かれるだろうが、確かなことはインドネシア映画が常に外来者と混血者によって発展してきた事実であろう。ヨーロッパ系は当初は技術者と資本を、のちには混血俳優を提供し、中国系は製作と配給において、インド系はその映画様式でそれぞれ影響を与えてきた。今日においても少なくない著名俳優や芸能人が混血者である。ナショナリズムを鼓舞する映画で実は主人公が混血だったり、実際の出自や宗教と異なった役柄を演じているのを見ると奇妙な感じがするのだが、インドネシア人観客はどう感じているのだろうか。

 日本映画の影響は限られているものの、チャンバラとりわけ60年代から70年代にかけて第三世界を席巻した座頭市の影響は当時のアクションものに色濃く見られる。また日本軍占領時代には日本映画が多く上映されたものの字幕無しが通常だったため、画面の横でストーリーを説明する人がいたとされる。それが弁士のような語り部だったのか、あるいは単なる説明者だったのか、今後の研究が待たれる。
 
 なお、63年のジャヤクスマ監督作品「台風と嵐の時代」及び65年のウスマル・イスマイル監督作品「芸術家の休暇」出演者名簿にタケウチ・ケイコとの記録がある。日本人と見られるが、日本人役ではない。一体どういう経緯で当時の国産映画に出演することになったのか、謎である。どなたか事情をご存知の方は是非教えていただきたい。

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2017.12.28  ラベル追加

2017年12月27日水曜日

映画評 東ティモールを観る 『バリボ』『母なる祖国』『裸足の夢』

某団体の会報に寄稿した映画評。これもいつだったか忘れている...4、5年くらい前か?

三本の中で文句なしの傑作は『裸足の夢』、東ティモール人にこの映画の感想を聞いたことはまだないが、きっと多くの人に愛されている映画ではないかと思う。

下記の評ではあえて書かなかったが、何度観ても泣いてしまう場面がある。


自分の将来に絶望した少年が盗みを働き警察に捕まる。
激怒し殴打する兄、呆然とするキム監督。
少年の絶望の深さに障がい者の兄は被害者の白人に土下座(!)して許しを請う。「俺が働いて必ずお金は返します」

一方、彼と険悪だった仲のキムはなけなしの現金を全て彼に渡す。
「無理してんじゃねーよ。」
そして少年に一言「悪かった。」

キムは自分の夢だけでなく少年たちの夢も捨てて韓国へ戻るつもりだったのだ。

警察署を出たキムの前で待っていたのはサッカー少年たち。
「キム監督、帰らないで!」
兄のサッカー練習をずっと見ていた幼女も「お願い、帰らないで」と消え入りそうな声を出して懇願する。

キム、声を出さず、ただ幼女を抱きかかえる。
「俺が間違っていた、もう一度やり直そう。」
(→こんな台詞、実はないが、私には聞こえました!)


あの国が今も抱えている貧困問題を象徴する場面だが、ダメ男の主人公を再起させるだけのパワフルな素晴らしいシーンでもある。ここを観るだけでも大いに価値のある作品です。


ぶくぶくニンジャ 
東ティモールを観る
『Balibo』 オーストラリア映画  2009年公開 Robert Connolly 監督 
『Tanah Air Beta』 インドネシア映画 2010年公開 Ari Sihasale 監督 
『A Barefoot Dream』 韓国映画 2010年公開 Kim Tae-Gyun 監督


 2012年5月、東ティモールは主権回復10周年を迎えた。99年の住民投票前後と国連による暫定統治の時期は国際社会の注目を集めメディアによる報道も盛んだったものの、主権回復後は2005年の騒乱時期を除けば国際的なニュースになることは少なくなった。しかし、国家建設の途上にある東ティモールにはいまだ様々な問題が山積しており、インドネシア時代の人権侵害事件や難民問題など未解決のものが少なくない。今回は東ティモールを理解するうえで参考になると思われる劇映画を3本まとめて紹介したい。

 豪映画『Balibo』はタイトルが明示するように、インドネシア軍が東ティモールへ侵攻する直前にバリボで豪州TV局所属のジャーナリスト5人を殺害したとされる「バリボ事件」を映画化したもの。主人公は若きジョゼ・ラモス=ホルタ(前大統領)とベテランジャーナリストのロジャー・イースト(インドネシア軍によるディリ侵攻時に死亡)。二人がバリボ事件の真相を求めて時に反目しながらも道中を共にする。彼らがバリボで見つけたものは何だったのか。そして首都ディリに迫り来るインドネシア軍に対して彼らが取った行動は...

 本作は2009年のジャカルタ国際映画祭においてインドネシア外務省の抗議で上映禁止となった「問題作」である。理由はジャーナリスト5人を殺害し焼却したのがインドネシア軍との描写があるためで、「5人は戦闘に巻き込まれて偶発的に死亡した」との見解を変えていないインドネシア側としては受け入れられないからだろう。しかし、この映画はあくまで劇映画であってドキュメンタリーではない。主人公二人は人格高潔な英雄というより結構だらしないところもあったりして、いわゆるプロパガンダ映画ではない。問題となった殺害場面にしてもカメラの視点はロジャー・イーストの想像(妄想?)であることははっきり描写されており、「これが事実だ!」という押し付けがましさはあまり感じられない。映画の見方がわからないインドネシア外務省の過剰反応だが、上映禁止措置がニュースになったおかげなのか、海賊版DVDがジャカルタの露店に並び、誰でも見られるようになったことはなんとも皮肉。この点DVD鑑賞をした私のような人間はインドネシア外務省にむしろ感謝すべきなのかもしれない。

 結末のわかっている作品ではあるが、バリボ事件を風化させないという強い意志が作品全体からは感じられ、この点東ティモールに関心のある人にとっては見て損のない映画と言える。

 2本目のインドネシア映画『Tanah Air Beta』は児童向け愛国映画を毎年学年末休みの6月に公開しているアレーナ・ピクチャーズによる製作。主人公は99年の住民投票後にインドネシア領西ティモールへ避難した少女メリーと母タティアナ。同様の境遇の人たちと共に避難民キャンプで暮らす。タティアナは学校の教師として働きながら、東ティモールに残留しているメリーの兄マウロとの国境での再会を人道支援ボランティアに依頼中。ある日タティアナが倒れたことをきっかけにメリーは兄に会うため一人で国境へ向かう。はたして離散した家族は再会できるのか?

 いわゆる家族愛がテーマなので、誰でも安心してみられる分、映画としては非常に凡庸な出来である。理由はいくつかある。ひとつには何故東ティモールがインドネシアから「分離」したのか、何故離散家族が発生したのか、その背景を全く描いていないため。インドネシア国軍が撮影に協力したと思われる場面が終盤にあるので、政治的な要素は製作者側が描きたくても無理だったのかもしれないが、劣悪な避難民キャンプを舞台とするだけで離散家族の悲劇を語るのは説得力に欠ける。インドネシア残留者の多くが元併合派民兵とその家族である事実を隠しているようでもある。また、映画としての細部が少々雑で、石鹸メーカーがスポンサーゆえの何回も挿入される手洗い場面はご愛嬌としても、メリーが国境へ向かう道中での食事シーンなどはどうやって食材や薪を入手して調理したの?と子供でもツッコミを入れたくなるほど。国境目指して歩く場面はティモールの乾燥した広大な風景をバックとしており、イメージとして悪くないが、いかんせん脚本全体が弱く、終盤も盛り上がりに欠ける。ただし、製作者の意図は東ティモール難民の窮状をインドネシア国民に広く知らしめることにあったようで、その点から見れば本作は成功しているかもしれない。

 3本目の『A Barefoot Dream』(映画祭での題名は『裸足の夢』)はインドネシア、東ティモール、そして日本を舞台とした韓国映画である。監督は学園アクションもの『火山高』や脱北者家族を描いた『クロッシング』で日本でも知られているキム・テジュン。結論から先に書くと、本作は今回紹介した3本の中でダントツに優れておりサッカーファンや映画ファンのみならず多くの人に感動作として強く推したい。

 主人公は元サッカー選手のキム・ウォンガン。プロを引退した彼は一攫千金を求めてインドネシアで怪しい事業に足を突っ込むも失敗ばかり。ひょんなことから東ティモールへ渡ったキムはサッカーに熱中する少年たちを見てスポーツ洋品店を開きサッカー教室を始める。指導料として一人1ドルをせしめる、なんともセコい主人公。しかし東ティモールの複雑な国内事情、すなわち元併合派と独立派の対立や慢性的な貧困失業問題が、サッカー教室の少年たちの関係にも影をさす。一旦は東ティモールを去る決断をしたキムだったが、自分を見つめなおし少年たちと共に日本で開催される少年サッカー大会への出場を目指して再奮起する。キムと少年たちの夢はかなうのか?

 優れた映画はオープニングからわかるというが、本作も例外ではない。主人公の性格と状況を的確かつ簡潔に描写し東ティモールへ舞台が移る序盤から観客は本作に引き込まれること間違いなし。とりわけ主人公の造形がいい。楽天的でお調子者、カネ儲けは大好きだが商才はなし、でもサッカーは飯より大好きというサッカー馬鹿。全くもって品行方正ではないが憎めない、だらしない主人公ゆえ容易に感情移入しやく、それゆえ彼がある決意をして友人に告白する場面は実に感動的であり、自己再生の物語として見事に成功している。

 また観客は東ティモールの事情に全く通じていなくても、主人公の目を通して国内対立や恒常的な貧困などを理解できる物語構成となっている。東ティモールに短期滞在した経験のある評者から見ても本作は細部がしっかりしており、東ティモールを理解する上で格好のテキストだと思う。東ティモールが抱える問題は紛争終結後の国々が抱える共通の問題であり、本作が国連本部で上映され賞賛を受けたというのも納得できる完成度の高さである。

 なお、本作は実話を元にしており、またシャナナ・グスマオ首相(撮影当時)も特別出演している。詳細は日本人スタッフ藤本信介さんによる以下のブログを参照していただきたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/shingenolza79/folder/1788433.html

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2017.12.28  ラベル追加



  

書評『ナニカアル』桐野夏生著

某団体の会報へ寄稿した書評。いつ頃だったか覚えてない...2012年か13年頃?

桐野夏生の小説はそこそこインドネシア語にも翻訳されているが(ただし英語からの重訳が基本)、本作はどうだろうか。2017年12月末時点では確認できてないが、林芙美子が海外でも知名度があるかと言えばかなり心もとなく、多分外国語には翻訳されていないような気がする。

その昔、インドネシア語版の『OUT』を書店で手に取り読み始めたら止まらなくなりほぼ二晩くらいで読了、その後作品の毒気に当てられたのか体調崩して寝込んだことがあった。以後、桐野作品を読むときは体調に万全を期すようになりました。


ぶくぶくニンジャ 
『ナニカアル』 桐野夏生 新潮社 2010年2月 1700円+税




 本書は昭和初期から戦後にかけて大衆的な人気を集めた女流作家・林芙美子を主人公に、「大東亜戦争」中の南方地域、主にインドネシアを舞台とした恋愛小説である。評者は三つの理由から本書に強い関心を寄せてきた。

 第一に著者が桐野夏生であること。出世作の『OUT』インドネシア語版を読了後に作品の毒気に当てられて体調を崩して以降、評者は桐野作品に強く魅了されてきた。読んだ後に疲労を感じる、陰惨で暗い話が少なくないにも関わらず、抗し難い魅力を桐野作品は備えており本書も例外ではない。

 第二に主人公が日本映画黄金期の傑作のひとつ『浮雲』原作者の林芙美子であること。評者は原作を未読だが、昔見た映画の方は、煮え切らない男女が互いの愚痴を言い合うだけの冴えない話、くらいの感想だった。しかし今思い返してみればあの作品以上の大人の恋愛映画というのはそうあるものではない。そして本書は芙美子自身が主人公の『浮雲』でもある。

 第三に、本書の舞台が「大東亜戦争」中の独立前のインドネシアであること。芙美子だけでなく多くの作家・文化人が軍の宣伝のため日本軍占領地域を視察あるいは文化工作に従事している。しかし、敗戦後彼らの多くは「侵略戦争」に加担したという後ろめたさからか、その体験を積極的に語り、創作化することは少なかった。本書は小説という形ながら、戦争とジャーナリズム、戦争と文化人の関係について示唆を与えてくれるだけでなく、一般にほとんど知られていない、開戦前から現地に住んでいた邦人がどのような運命を辿ったかについても教えてくれる。

 本書は芙美子が生前に残した未発表原稿という体裁で物語が進んでいくが、これは『残虐記』と同様の趣向であり、物語の早い段階で彼女が不倫相手の子供を妊娠していることが明かされる。彼女の伝記的事実を知っている者にとって以後の展開の予想はさほど難しくないが、納得できないことには誰にでも啖呵をきる性格の芙美子を一人称として物語が進行するので、読者はかなり感情移入しやすい。しかし評者がもっとも印象に残ったのは中盤から登場する従卒の野口という人物だった。架空の人物である彼は芙美子を見張る軍人であり、おそらく憲兵なのだが、人懐っこいかと思えばねっとりとした観察眼をもち、終始底の見えない人物として描かれている。真綿で首をしめるような雰囲気、戦時下の息苦しさが野口という人物に凝縮されているようだ。

 「日支事変」で戦場ルポを書いた林芙美子を戦争協力作家と捉えることは間違いではない。しかし、彼女の南方体験がなければ、『浮雲』という傑作が生まれなかったことも確かである。誤解を恐れずに言うと、本書のコピーに倣えば「女は本当に罪深い」のかもしれない。

 なお、日本大学の山下聖美准教授が芙美子の南方従軍について現地調査をされているので、関心のある方は以下のサイトを参照していただきたい。
http://www.yamashita-kiyomi.net/archives/cat28/cat27/index.html

 作中では軍の要請で各地を訪問したように書かれているが、他の女流作家と比較してその行動範囲は飛びぬけて広い。本当は、彼女自身が「南方放浪記」を書きたかったから、あるいは本作のように恋人との密会を画策していたから、というのは穿ちすぎだろうか。

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2017.12.28 ラベル追加

書評『皇軍兵士とインドネシア独立戦争 ある残留日本人の生涯』 林英一著

某団体の会報に寄稿。いつの号だったか、時期を忘れてしまった...

著者の林英一さんには2回お会いしたことがある。掛け値なしのイケメン研究者で将来が非常に楽しみな方です。あ、もちろんインドネシア研究の方ですよ。

師匠の倉沢愛子さんのように質量ともに優れた一般書をどんどん書いていただきたいものです。

我ながら野次馬はいつも身勝手...


ぶくぶくニンジャ 
『皇軍兵士とインドネシア独立戦争 ある残留日本人の生涯』 林英一著 吉川弘文館 2011年12月20日発行 2200円(税抜き)
出版社HP http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b94774.html




 本書は2007年出版の処女作『残留日本兵の真実』で注目を集めた新進気鋭の研究者・林英一氏の5冊目の著作である。脚註が多い『残留日本兵の真実』や続編の『東部ジャワの日本人部隊』とは少々異なり、かなり一般書に近いスタイルで書かれているため、読者にとって敷居の低い、読みやすい本になっている。

 本書の主人公は、前2作で焦点が当てられたラフマット・小野盛ではなく、残留日本兵の中ではおそらく最も日本のメディアに取り上げられることが多かった故フセン・藤山秀雄である。私自身は彼のライフストーリーを本書によって初めて知ったのだが、確かにメディアが好みそうな、ある意味典型的な残留日本兵の物語と彼の人生を要約することは容易だろう。ただし、著者の問題意識は残留日本兵の戦後史に留まらず、彼らの子孫が「祖国」日本への移民労働者となっている現状まで捉えている。その結果、右派が唱える「大東亜戦争によるアジア解放史観」の論拠としてのみ残留日本兵を取り上げてきた、特に90年代以降に出版された多くの類書やTV番組などとは本書は一線を画していることを強調しておきたい。

 いささか大上段に構えてしまったが、評者にとって本書の読みどころは藤山が戦中戦後に経験してきたエピソードの数々だった。例えば、独立革命戦争時にオランダ軍と戦ったのは正規軍だけでなくイスラム系民兵などもあり非常に混沌とした状況だったことはある程度知られているが、ジャカルタの闇組織が母体の民衆軍Laskarが国軍と激しい対立関係にあり、やがて民衆軍の系譜につらなるバンテンの竹槍部隊に残留日本兵数名が合流して国軍と対決した事実は本書の記述によって初めて知った。本書では触れられていないが、残留日本兵がインドネシア独立後にダルル・イスラーム軍に合流することを中央政府が恐れ、彼らを強制帰国させようとした事実もある。現在は日本人によって「美談」として語られがちな残留日本兵の存在が、当時の中央政府や国軍にとっては必ずしも好ましくない、ある意味疎ましい存在だったことはもっと広く知られるべきだろう。

 欲を言えば、1974年の田中角栄首相ジャカルタ訪問時に発生した反日・反政府暴動(マラリ事件)に藤山ら元残留日本兵たちが何を感じ、どう反応したか、藤山が住居を構えていたタンジュン・プリオクで84年に発生した当局によるムスリム住民虐殺事件を彼がどのように捉えていたか、日本で移民労働者として今も働く藤山の子孫たちが自身の自己同一性をどう考え、日本とインドネシアの社会をどう見ているのか、そうした点を著者にはもっと掘り下げてもらいたかったと思う。

 なお、前2作の小野も本書の藤山も、非常に貴重な史料である当時の日記や備忘録を若干20歳だった著者に気軽に渡している。もちろん彼らに語りたい物語があったからだろうが、著者のひたむきな姿勢が元日本兵たちの心を動かした側面もあったと思われる。インドネシア語で書かれた4冊目の著作「Mereka yang terlupakan ; Memoar Rachmat Shigeru Ono」には、現在はパピと呼ばれている小野の顔写真が多数掲載されており、著者に対する小野の信頼の深さを垣間見ることができる。同様に、2007年6月に85歳で逝去した藤山の霊も本書の出来に満足しているのではないだろうか。著者の次作が楽しみである。(敬称略)

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2017年12月26日火曜日

書評『怪奇映画天国アジア』四方田犬彦著

某団体の会報に5年前に書いた書評。

私が何かを書く時考える時、いつも影響を受けているのが四方田犬彦さん。書物を通しての師匠というものが私にいるとすれば、間違いなく彼だと思う。

昨年はついにインドネシア怪奇映画の妖花スザンナについて東京で講演をおこなっているが、怪奇映画の妖しい花々は今も東南アジアの各地で、最近は怪奇映画が不在の中近東でも咲き始めている。本書の記述は更にアップデートされる必要があり、関係者各位の奮起を期待しています。


ぶくぶくニンジャ 

怪奇映画天国アジア 四方田犬彦著 白水社 2009年発行 2900円(税抜き)





 本書はインドネシアをはじめとする東南アジア各国の怪奇映画について論じた、極めてユニークな書物である。怪奇映画という言葉はいささか古めかしいかもしれないが、幽霊や怪物や妖怪が出てくる映画という括りとして考えるならば、本書の文脈においてはホラー映画という名称よりもよりふさわしいといえる。しかも「天国」!どれだけ多くの怪奇映画が製作上映されてきたか、普通の日本人は、いやアジアに詳しい日本人ですら、そうした事実に無頓着だったのではないだろうか。知られざる各国のローカル映画、しかも現地のインテリからも外国人批評家からも明らかに貶められてきた怪奇映画というジャンルを本格的に論じた書物はおそらく本邦初であろう。

 とは言え、怪奇映画、ホラーというだけで敬遠する方もいると思う。しかし怪奇映画における幽霊や怪物が何を表象しているのか、「なぜ幽霊は女性であり、弱者であり、犠牲者なのか?」(本書帯より)考察してみることは国際映画祭で受賞した「芸術映画」を論じること以上に重要ではないだろうか?なぜならタイやインドネシアで最も観客を集めるジャンルとは怪奇映画に他ならない。これらの作品を読み解くことは東南アジア社会を理解するひとつの手がかりになるはずである。

 それでも反論する人はいるだろう。「怪奇映画は下劣で低俗で非論理的で論ずるに値しない」と。なるほど、今もインドネシアで量産される怪奇映画のほとんどが低予算で製作された、観客の下世話な興味をあおるだけの、その場限りの娯楽なのかもしれない。しかし怪奇映画という枠組みを広く捉えた場合、そこにはある種の政治性が浮かび上がってくる。70年代から80年代にかけて一時代を築いた妖花スザンナ主演の怪奇映画は基本的に通過儀礼と秩序回復の物語であり、それは当時のスハルト体制のあり方に対応している。そして当時の教育の場で強制的に毎年上映された悪名高いプロパガンダ映画「インドネシア共産党九月三十日の裏切り」(原題Pengkhianatan G-30-S PKI)は「観客を妖怪めいたものにする」真の怪奇映画ではなかったか。さらにこれは評者の仮説だが、伝統的な幽霊や怪物を登場させる怪奇映画が現在も量産されるのは、猛烈な勢いで進むグローバライゼーションに対する現地社会からの反撃の一形態ではないだろうか。

 本書の構成は、第一章が怪奇映画についての理論的な考察と日欧米の怪奇映画の系譜について、第二章以降は東南アジア諸地域における各論、インドネシア製怪奇映画については第二章と第四章で個別の作品が論じられている。いささか取っつきにくいと考えている方は第一章と第七章、おまけの英語の抄訳から読んでいただきたい。怪奇映画に対する偏見が和らぐこと間違いなしである。

 本書の欠点を指摘するとすれば、著者が地域専門家でないため細かい事実関係の間違いが散見されること、インドネシア同様お化け話が大好きなフィリピンやミャンマーの映画を全く取り上げていない点だろう。この点は著者も自覚的で、本書はあくまで2009年時点での暫定的な結論に過ぎないと述べている。後続の研究者たちには是非とも本書の続編を書いてほしいと思う。なお、日本でも「呪歌」(原題Kuntilanak)や「呪いのフェイスブック」(Setan Facebook)という題名でインドネシア製怪奇映画がDVD発売されているので、関心のある方は探してみていただきたい。

 さて、それでも幽霊が苦手で本書へ手を伸ばすことに躊躇する方へ。大丈夫、これは本なので某映画のように顔が見えないほど長髪の女性が出てきて呪い殺されることは絶対にありません。安心して最後までお読みください。

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2017.12.28  ラベル追加

映画評『虹の兵士たち』リリ・リザ監督

某団体のニュースレターに寄稿した映画評。
本作品の観客動員記録は昨年のワルコップDKIリボーンまで破られなかった、まさに内容的にも興業的にもここ20年のインドネシア映画を代表する一本。映画上映後にはミュージカルも製作され、こちらも話題になりました。

実のところ、私はこういう教育啓蒙映画が苦手、もっと言えば嫌いな映画の部類。上から目線の「啓蒙」という概念が嫌いなのだ。もっとも、本作に限って言えば、それは杞憂であるし、今のインドネシアではこういう映画こそが望まれているし必要なことも重々理解している。

ただし、本作を「インドネシア版二十四の瞳」と形容して日本へ紹介した人を信用してはいけない。『二十四の瞳』はそういう甘い教育話では全くない。これは原作小説も木下恵介の映画も同様。あなたは本当に『二十四の瞳』を読んだのですか、映画を見たのですか?と問い詰めたい気分になったことを今でもよく覚えている。



ぶくぶくニンジャ 
DVD 虹の兵士たち(原題 Laskar Pelangi )
2008年劇場公開 125分 製作マイルズ・フィルムズ
プロデューサー ミラ・レスマナ 監督 リリ・リザ 脚本 ミラ・レスマナ、リリ・リザ
出演  チュッ・ミミ、イクラナガラ、スラメット・ラハルジョ、トラ・スディロ、ズルファニ、フェルディアン、フェリス・ヤマルノ

 ここ数年のインドネシア映画は好調だ。昨年2008年はそうした勢いを象徴する映画が立て続けに大ヒットを記録した。一つはイスラム風メロドラマの「愛の章」(原題Ayat ayat Cinta)、もうひとつが今回紹介する児童映画「虹の兵士たち」(原題Laskar Pelangi)である。共にベストセラー小説を原作とし、人気歌手が歌う主題歌も映画同様のヒットを飛ばした。観客動員数は前者が400万人弱、後者が400万人超。TVや雑誌は特集記事を組み、原作者は共に一躍時の人となり、ちょっとした社会現象にもなった。両者の違いを挙げるとすれば、前者が改宗と一夫多妻をテーマとしているせいかストーリーへの厳しい批判があった点、一方後者は一般観客だけでなく批評家からも多くの支持を受け、ベルリン映画祭ほか海外へも広く紹介された点だろう。外国映画と比べて質の低さが常に指摘されてきたインドネシア映画界において、本作は興行面と内容面の両方で大成功を収めた作品であり、ティーン向けラブストーリーやホラーが国内映画市場を席巻している現状に一石を投じたと言えよう。

 本作の時代設定は70年代末、錫生産で豊かなはずのブリトン島の、歴史はあるがほとんど廃校寸前のムハマディヤ小学校を舞台に、教師と生徒たちが厳しい環境の中で奮闘する様子が時にユーモラスに、時に共感をこめて描かれている。「知性は数値からではなく心で見るもの」と語る理想主義者のハルファン校長と腕白な生徒たちを「虹の兵士たち」と呼ぶ新任の女性教師ムスリマに見守られながら、主人公イカルをはじめとする個性豊かな子供たちはどこか郷愁を感じさせる風景の中で、学び、働き、悩み、そして走っていく。ストーリー前半の山場は、独立記念日学校対抗フェスティバルで楽器がないことを逆手に生徒たちが奇抜な創作ダンスを演じて堂々1等賞に輝く挿話であり、後半では学校対抗テストにおいて数学の天才リンタンがその才能を存分に発揮するシーンだ。両方とも、自分たちは貧しいが豊かな他校の生徒には負けないとの主人公たちの気概が伝わってくる、名場面になっている。そして、そのリンタンが漁師である父の急死から学校を辞めざるを得なくなるところから物語は終息へ向かい、成人した主人公のイカルがフランス・ソルボンヌ大学への留学前に帰郷してリンタンと再会し、夢を持ち続けることの大切さを観客に訴え本作は幕を閉じる。非常に教訓的な、ある意味予定調和的な終わり方なのだが、原作者アンドレア・ヒラタの実体験が元になっているので、ご都合主義とは言えず、むしろ観客に爽やかな余韻を残す。

 本作が成功した要因は、ベストセラー小説の映画化というだけでなく、「全ての子供には教育を受ける権利がある」との明瞭なメッセージを、リアリズムと共に平易に語った点に負うところが大きいと思う。生徒役を全て地元のブリトゥン島の子供たちから選び、オールロケーションで撮影した結果、インドネシア映画やTVで一般的なファンタジーに陥らずにすんだことが幸いしている。いまだ良好とは言い難い環境の中で学ぶ子供たちや、そうした学校に通わせるしか選択肢のない親たちが本作の登場人物たちに強く共感したことは間違いのないところだろう。

 日本では去る3月に国際交流基金主催の映画祭において上映されたが、最近インドネシアでも英語字幕付きDVDが発売されたので、多くの人に見てほしいと思う。

<更新履歴>
2017.12.28 ラベル追加

書評『美は傷』エカ・クルニアワン著 太田りべか訳

以下の書評は10年前に某団体ニュースレターに寄稿したもの。

インドネシア語の原本はこの間何度も再版を重ね、カバーもそのたびに変わり、欧米各国でのエカ・クルニアワン人気は高まるばかり。一方、日本では版元が倒産したのでそれっきり。何てもったいない!!!


 
西ジャカルタの巨大モールCentral Park内のグラメディアにて撮影
(2017年12月24日)


というわけで、何かの間違いでこのブログを読んだ出版関係の貴方。訳者の太田さんは私の知り合いなので、復刊を検討される場合はご連絡ください。


ぶくぶく ニンジャ
「美は傷 混血の娼婦デウィ・アユ一族の悲劇」上下巻
エカ・クルニアワン著 太田りべか訳 新風舎文庫(各800円)

 インドネシア語の小説が日本語に翻訳されるのは久しぶりである。98年のスハルト政権崩壊以後、インドネシアについての本が多数日本語で出版されたが、ほとんどが政治経済分野の変動に関する内容であり、文化面をカバーした本はあまり見当たらなかった。まして最新のインドネシア語小説の邦訳となると無きに等しい。98年以降は新世代作家の台頭が著しく、特に女性作家アユ・ウタミやディーらの小説がインドネシアでは話題を呼んだのだが、惜しいかな彼女たちの作品の邦訳出版はまだなされていない。要は邦訳しても読む人がいない、商売にならないという出版社の判断なのだろうが、残念なことである。それゆえ、こうした厳しい出版状況の中で本書「美は傷」(原題Cantik itu Luka)が邦訳出版されたことの意義(しかも手ごろな文庫版!)はいくら強調しても足りない。これが今回本書を取り上げた理由であり、是非手に取って読んでいただけたらと思う。

 本書の舞台はジャワ島南岸の架空の町ハリムンダ。時代は20世紀前半オランダ植民地時代から現在まで、ある家族の五代にわたる悲劇が激動のインドネシア史と交差しながら語られていく。こう書くと、昨年物故したプラムディヤのブル島四部作のような歴史大河小説を連想されるかもしれないが、さにあらず、この小説は何と怪奇小説のように開幕するのだ。「三月の週末の夕暮れ時、デウィ・アユは死後二十一年にして墓場からよみがえった。」 この始まり方で読者はこれがリアリズム小説ではないことを知るだろう。そしてラストはいかにもミステリー風に「美は傷だから。」の一言で幕を閉じる。

 訳者の太田りべかさんはあとがきの中で、本書にガルシア=マルケス『百年の孤独』の影を認めているので、本書はインドネシア流マジックリアリズム小説とでも呼べばいいのだろうか。ともあれ、一癖も二癖もある登場人物たちと、彼らをインドネシア現代史に密接に絡ませた物語の構造に私は魅了された。超然とした態度で何事にも臨む主人公のデウィ・アユはじめ、その美しき娘たち、主人同様頑固な性格の聾唖の使用人ロシナー、独立革命戦争の英雄ショウダンチョウ、シラット小説の主人公のごときヤクザ者ママン・ゲンデン、ハンサムな共産主義者クリウォン党員、そしてデウィ・アユの四女で世界一醜い娘チャンティックと謎の「王子様」、更には霊媒師や幽霊たち。彼らが織りなす愛憎劇と現代史が交じり合うことで濃密な物語が展開していく。あえてこじつければ、ガドガド風味とでも言うのだろうか。そして、残酷で血生臭いエピソードですら、読了後ではある種の「不可思議な明澄さ」(訳者あとがき)に昇華している点に著者の才能を感じる。

 主人公デウィ・アユの一族にかけられた「呪い」とは何なのか、それは最終章で明かされるわけだが、おそらく作者の意図は「呪い」をキーワードにインドネシア現代史を再構成するところにあったのだろう。あるいはこれは私の深読みかもしれないが、インドネシアそのものが呪われているのだと作者は言いたいのかもしれない。作者のエカ・クルニアワン氏はまだ32歳、彼の小説が更に邦訳されることを期待したい。

<更新履歴>
2017.12.28 ラベル追加、原書最新版の画像追加。

2017年12月21日木曜日

インドネシア映画の過去・現在、そして可能性

日本インドネシアNGOネットワーク(JANNI)会報76号(2011年8月)に掲載されたインドネシア映画についての原稿を再掲。本文のこれとは別に気になる映画人やトピックについては別にコラムも書いた。

今一度インドネシア映画の研究に時間を割きたい...



インドネシア映画の過去・現在、そして可能性
轟英明(ジャカルタ在住)

はじめに

 ここ数年明らかにインドネシア映画(以下国産映画)は興行的にも内容的にも好調の波に乗っている。インドネシアではシネコンでの上映が一般的だが、最低1本は最新の国産映画がシネコンで常に上映されていると言っても過言ではない。(例外は各種娯が自粛される断食月の時期)あるいはDVDショップへ行けば、近年上映された国産映画を見つけることは海賊版、正規版を問わず困難なことではない。
 日本の映画事情しか知らない人にとっては当たり前のことでも、20年前から国産映画を見てきた私のような人間にとってはこうした現状は実に感慨深く思える。何故なら私が国産映画を見始めた頃、国産映画は瀕死の状態だったからだ。ようやく国産映画を上映している映画館を見つけたと思ったら、しょぼい出来のソフトポルノでがっかりしたり、昔の映画のVCDを購入したもののトリミングされた上にひどい状態の画面、当然字幕なし、結局途中で挫折したこともあった。無論映画の質やジャンルに関して言えば今でも不満は多々あるが、以前よりも作品の選択肢が広がったことは間違いなく、しかも近年は多くの作品が英語インドネシア語字幕付DVDで発売されていることは歓迎すべき変化である。そう、インドネシア映画界は間違いなく活況を呈しているのだ。
 しかし、動画サイトで一瞬にして世界につながると同時にあっという間にそれらが忘れ去られていくデジタル時代に、国産映画は今後も活況を維持できるだろうか?活況のように見えて実は多くの人の記憶に残らない映画が増えているだけなのではないか?
 前置きが長くなったが、この稿では国産映画の歴史を振り返ると共に、今後目指すべき方向性とその可能性を未来への展望として述べてみたい。

国産映画史の時代区分

 国産映画史を振り返る際、国内の政治変動と切り離して論じることは不可能である。ここでは便宜的に国産映画史を以下の4つの時代に分けて論じる。①オランダ植民地時代及び日本占領時代(1926-1945)③独立からスカルノ失脚までの旧秩序時代(1946-1966)④スハルト独裁による新秩序時代(1967-1998)⑤スハルト退陣後の改革時代(1999-2011)。なお、日本語の映画題名は日本で劇場公開あるいは映画祭等で上映された場合にはそちらを優先した。

オランダ植民地時代及び日本占領時代 -国産映画の黎明期(1926-1945)

 19世紀の終わりに発明された映画がオランダ植民地時代のインドネシアで初めて上映されたのがいつどこだったのか明確な記録はないが、1900年にはバタビア(現在のジャカルタ)において映画が上映されたことが確認されている。(四方田、57頁)1905年には常設の映画館ができたものの、ヨーロッパ人によるヨーロッパ人のための映画館だったようだ。(松岡、212頁)
 1910年代から映画製作が本格的に始まっていた日本・インド・中国に遅れること十数年、インドネシアでも1926年に初の無声劇映画「猿に化身した男」Lutung Kasarung がバンドゥンにおいてドイツ人 L・ヒューヘルドルプとオランダ人 G・クルーゲルによって作られた。物語は西ジャワの伝説を基にし、出演者は当時のバンドゥン県知事の子供であったが、実際の製作は外国人によって担われた。(JB Kristanto、1)このような枠組み、すなわち俳優や重要でないスタッフは土着系(プリブミ)である一方、製作者や監督や撮影などの重要なスタッフ及び配給は非プリブミ(華僑やオランダ人)という構造はこの後も長く続いた。この時期の主な華僑映画人に上海出身のウォン兄弟、初のトーキー作品「チクンバンの薔薇」Boenga Roos Tjikembang などを製作監督したテー・テン・チュンがいる。興味深いことに当時映画の題材となったのは初期ムラユ語大衆小説「ニャイ・ダシマ」やブタウィの義賊物語「ピトゥン」、あるいは中国本土の古典「西遊記」、「白蛇伝」、「梁山伯と祝英台」だった。(JB Kristanto、1-5)
 37年には南海を舞台としたハリウッド製ミュージカルを翻案した「月光(Terang Bulan)」 が封切られマレー半島やシンガポールへ輸出されるほどの大ヒットとなった。主演女優ルキアは一躍大スターとなり、多くの資本家が映画製作に目を向けるきっかけともなった。それまで年間製作本数は二桁に満たなかったが、40年に14本、翌41年には30本と急増した。(JB Kristanto、5-11)
 しかし42年から始まる日本軍政は国産映画の興隆にストップをかけた。ほぼ全ての映画製作会社は閉鎖され、日本軍の統制下にあるジャワ映画公社(のちに日本映画社)のみが製作を担ったからである。日本映画社は主にニュース映画・文化映画を製作したため、劇映画は「闘争(Berdjoang)」 や「対岸へ(Keseberang)」 など数本作られたのみだった。(JB Kristanto、11-12)上映作品を厳しく規制された映画館はその多くが閉鎖を余儀なくされ、戦前から活躍していた映画人、特に俳優の多くは大衆演劇サンディワラへ活動の場を移していった。(猪俣、99頁)その一方、日本軍は啓民文化指導所の映画部門で演出家や脚本家を養成し、プロパガンダを通してであったがプリブミ系スタッフはオランダ時代よりもより深く映画技法を学ぶ機会を与えられた。また移動巡回隊による映画上映はインドネシア語普及にも一役買っていた。(倉沢、79頁)結果として日本軍占領時代に独立後の国産映画隆盛の素地が作られたとも言えるだろう。

独立からスカルノ失脚までの旧秩序時代 -高揚するナショナリズム(1946-1965)

 インドネシアが独立を宣言した45年から47年にかけての劇映画製作本数はゼロであるが、ニュース映画が日本映画社から機材を引き渡されたインドネシア映画報道社によって撮影されている。劇映画の製作が復活するのは48年からであり、早くも50年には23本、ピークの55年には65本と記録されている。その後はスカルノ独裁政権下の政情不安や地方反乱、インフレの影響などもあって低迷し、40本を上回るにはスハルト政権下の71年まで待たなくてはならなかった。
 50年は国産映画にとって記念碑的な年である。初の民族系(プリブミ)資本による製作会社がほぼ同じ時期に設立された。芸術主義志向の映画監督ウスマル・イスマイルによるプルフィニ(PERFINI)と、商業主義志向の敏腕製作者ジャマルディン・マリクによるプルサリ(PERSARI)である。プルフィニが設立され、第1作「血と祈り(Doa Dan Darah、又はThe Long March of Siliwangi)」 の撮影が開始された3月30日はその後国産映画の日と政府によって定められている。 (Gayus Siagian、77-79)
「血と祈り」は独立戦争下のインドネシア人部隊がジョグジャカルタから西部ジャワへ行軍する物語であり、イタリア・ネオレアリズモの影響が感じられる作品である。素人俳優を起用し、セット撮影よりも野外ロケを多用したこの作品は、その後「独立戦争もの」と分類されるジャンルの嚆矢でもある。今作で特徴的なのは後年の類似作品のような声高いナショナリズムはむしろ控えめで、英雄賛美もあまり感じられない点だろう。主人公である部隊長はオランダ人混血女性にモーションをかけるかと思うと、従軍看護師にもアプローチするという優柔不断さ。行軍途中でダルル・イスラム軍支配下の村落で夜襲を受ける場面、退役した主人公が共産党員によって銃殺されるラストシーンなどは当時の事情を知らなければ容易には理解しにくい。現在残っているフィルムは音声も画面も劣化が激しく、しかも全体的に遅いペースで(文字通りのリアリズム?)物語が進み、戦闘シーンでは兵士の勇壮さはあまり強調されないので、単純に見て面白い作品とはいささか言い難い。しかし、実際の戦争終結から間もない時期に製作された今作こそが、おそらく戦争の実態により近いものであり、後年の類似作品の方がむしろ神話化された物語なのだろう。
 実際、10年後にウスマル自身によって撮られた「自由の戦士たち(Pedjuang)」では独立の大義に懐疑的なヒロインこそいるものの、全体のトーンとしては明朗そのものである。ロマンスやアクションなど娯楽要素の比重が増え、「血と祈り」とは異なり、敵であるオランダ軍が実に憎々しげに描かれている。
 ウスマルの盟友であったジャヤクスマのデビュー作「露(Embun)」やウスマルの「夜を過ぎて(Lewat Djam Malam)」では独立戦争後に復員兵が社会復帰することの困難さが語られている。戦後の社会にうまく適応できない生真面目な主人公の苦悩と、事業で成功した戦友や上司の欺瞞や横暴が対比され、独立とは一体何のため誰のためだったのかが問われている。こうした視点は後年のナショナリズムをテーマとした作品には見られないものであろう。
 外国映画に負けない質の高い国産映画の製作を目標とした彼らの作品からは、シリアスな題材であっても明るく前向きなナショナリズムや理想主義が感じられる。インドネシア文化とは何か、インドネシアの独自性とは何かを真摯に追求し、それを映画として結実すること。その一例はミナンカバウ地方とその文化を背景とするシラット映画「チャンパの虎(Harimau Tjampa)」、 ゴーゴリ原作の「検察官」を当時のインドネシアの文脈に換骨奪胎した政治コメディ「賓客(Tamu Agung)」などに見られる。(Hanan、40-41)
 一方、実業界出身でナフダトゥール・ウラマー党の政治家でもあったジャマルディン・マリクは隣国フィリピンやマレーシアとの合作、映画先進国インドからの監督・スタッフの招聘などを積極的におこなった。国民国家の枠組みが確固たるものになる以前ゆえにできたことなのか、いずれにしてもインドネシアのMGMたらんとした彼の野心的な行動力は国産映画史の中で異彩を放っている。
 当時そして現在も国産映画の最大のライバルはアメリカのハリウッド映画であるが、50年代から60年代にかけては、シンガポールを本拠地とする中国系映画会社ショウブラザーズ製作のマレー語映画や歌と踊りが満載のインド娯楽映画、またフィリピン映画もかなりの人気を博していた。国産映画の人気に陰りが見え始めると映画人はスカルノ大統領に国産映画の保護を要請し、輸入映画本数が制限されるようになったものの、それは国産映画の質向上には必ずしも結びつかず、経済状況の悪化に伴い65年には製作本数は15本まで減少している。また、当時一大勢力を誇ったインドネシア共産党傘下の文化団体レクラによって、帝国主義を喧伝するものとしてアメリカ映画のボイコットが呼びかけられたほか、バフティアル・シアギアンらレクラ所属の映画監督による左派映画も製作された。60年代前半から65年の9月30事件までの期間は、映画界においても共産党勢力と非・反共産党勢力の争いが激しかったようである。(Sen、27-49)

スハルト独裁による新秩序時代 ‐国産映画の産業化そして斜陽化(1966-1998)

 9月30日事件とその後の政治的動乱は映画界にも影響を及ぼし、69年の製作本数はとうとう9本まで減少した。またこの間中国系住民への迫害が続きスハルト政権の強圧的な同化政策もあいまって中国系の間でインドネシア名への改名が進んだ。ただ、68年にはカラー映画「ジャカルタ‐香港‐マカオ」が現地ロケで撮られたり、70年代初期の国産映画や香港映画ポスターに中国語表記が一部あるなど、実際に中国色が社会の表から消えるのにはしばらく時間がかかったようだ。
 60年代後半から70年代初期は白黒からカラーへの移行が進み、題材も世界的な潮流に倣ってセックスと暴力が銀幕を覆うようになった。とは言え、新秩序体制下の厳しい検閲のため描写そのものは外国映画と比べればおとなしいものだった。50‐60年代に活躍したウスマルやジャマルディンが70年、71年に相次いで若くして亡くなったのはこうした時代の変化を象徴する出来事だったと言える。
 70年代は題材が多様化し、従来のラブロマンスやコメディに加え、怪奇映画やコミック原作のアクション映画も作られるようになった。前者の代表作は怪奇映画の女王ことスザンナ主演の「墓場での出産(Beranak Dalam Kubur)」 やシラット映画の王者ことバリー・プリマ主演の「原始的(Primitif)」 、後者には「幽霊洞窟の盲人剣士」シリーズ( Si Buta dari Goa Hantu)」 が挙げられる。コメディ分野でも今なお愛される歌手兼俳優のベニャミン・Sが「モダンボーイ・ドゥル(Si Doel Anak Modern )」などで人気を博した。お色気コメディ、都市風俗、ドタバタナンセンス、独立戦争、シラット、大衆歌謡ダンドゥットなど、ジャンルの多様化が進む一方、それを専門とする監督や俳優が生まれ、映画がシリーズ化されたのもこの時期の特徴だろう。
 70年代から80年代を代表する監督としては、中国系のトゥグ・カルヤと、60年代にモスクワで映画を学んだシュマンジャヤを挙げたい。
 トゥグ・カルヤは「初恋(Cinta Permata)」、「母(Ibunda)」、「追憶(Doea Tanda Mata)」など繊細な心理劇を得意としたが、「1828年11月(November 1828 )」のような歴史大作も撮っている。「初恋」はその後国内外で最も著名な映画人となったクリスティン・ハキムの記念すべきデビュー作であり、その後何度もコンビを組むスラメット・ラハルジョとの初共演作としても記憶されている。今やベテラン俳優となった二人の若々しさが今日見ても実にまぶしい限りだ。「母」はバラバラになりかけた家族が最終的には母の元に集まりその愛情を確かめ合う物語。不倫、駆け落ち、パプア人との異人種結婚などの難題があっけなく解決してしまうのはご都合主義と言えなくもない。ただ、それは監督主導というよりはむしろスハルトの新体制が求めた面もあったように思える。時代が要請していた家族主義と言えるかもしれない。特にパプア人(劇中ではイリアン人)を知的でハンサムなエリートと設定しジャワ人の娘が彼に魅かれる点に、国民統合を強く押し進めていた新体制の意図あるいは時代の風潮を感じる。演劇界出身の監督の本領はむしろ結末部分よりも、劇中劇で主役を演じる息子の苦悩が実生活と劇中で重なりあうメタ構造的な演出部分にあるのだろう。
 シュマンジャヤは様々なジャンルを横断的に次々に撮った野心的な監督だった。映画評論家佐藤忠男氏がインドネシア映画のベストに挙げる下級公務員の悲喜劇「ママッド氏(Si Mamad)」はチェホフを原作としていたためかインドネシアの現実とは違いすぎるとして批評家からの評判は決して高くなかったようである。(佐藤、113-115頁)「無神論者(Atheis)」は主題が神の実在についてだったためイスラム勢力や反共を掲げていた体制を刺激し、製作段階から論議を巻き起こした。敬虔なムスリム青年の日本占領前から敗戦時までの思想遍歴をたどる内容だが、後半部で「戦艦ポチョムキン」の最も有名な「オデッサの階段」場面をいただいている。(JB Kristanto、113)一方、大ヒットを飛ばした「ドゥルの少年期(Si Doel Anak Betawi)」では自身の経験を交えたリアリティが感じられ、続編「モダンボーイ、ドゥル」ではより軽妙さが増すと同時に風刺的な要素も強くなっている。その他の作品、「カルティニ(Kartini)」では歴史劇らしい風格を見せ、従軍慰安婦を主人公とした「欲望の奴隷(Budak Nafsu)」では主人公を輪姦する日本軍人たちを表現主義的に描き、遺作となった「オペラ・ジャカルタ(Opera Jakarta)」では複雑な群像劇をダイナミックに演出している。(佐藤、28-29頁)こうしてそれぞれの作品を短く取り上げるだけでも、手掛けたジャンルが多様であることがわかる。しかも各作品のスタイルが相当に異なっているところが、他の監督との大きな違いであろう。彼が85年に52歳の若さで亡くなったことは国産映画界の大損失であった。
 スハルト政権時代の32年間、製作本数は77年の124本と90年の117本、2回ピークを迎えている。71年から91年までの21年間、50本を下回ったのは75年のみだった。浮き沈みはあるもののコンスタントに国産映画は作られてきたのであり、50年代には極めて貧弱な設備と限られた資本しかなかった国産映画はこの時期に産業化したと言えよう。しかし、90年代に入り民間テレビ放送の本格的開始とアメリカ映画の攻勢により製作本数は急激に減少、スハルトが退陣した98年はわずか4本であった。この時期に国産映画が絶滅寸前のどん底まで落ち込んだのは上記の要因だけではない。映画館でしか見られないものを作ろうと質の低いお色気ものばかり粗製乱造したこと、当時普及し始めたシネコンでは「オシャレな映画」が優先される一方国産の「下劣な映画」はオンボロな二番館三番館でしか上映されなくなったこと、それがますます観客の国産映画離れを加速する、といった悪循環であった。

スハルト退陣後の改革時代 ‐国産映画の復活と新世代の台頭(1999-2011)

 スハルトが大統領の座を退き、検閲制度が緩くなった後も経済危機の後遺症などが原因で製作本数は急増とはならず、2004年になってようやく31本まで回復した。90年代には国産映画の上映に非協力的だったシネコン21グループが国産映画を上映するようになったのも歓迎すべき変化だった。またシネコンでも一般映画館でも夜市などでの巡回映画館でもない、新たな流通形態としてビデオCD(近年はDVD)販売が一般化し、これによって投資家は劇場公開なしでも資金回収が可能となった。こうして年々製作本数は増加し、2010年には87本に達した。
 作品の傾向としては90年代半ばに粗製乱造されたソフトポルノが減少し、代わって若者向け恋愛映画が市場の多くを占めヒットを飛ばすようになった。主な作品は日本でも劇場公開された「ビューティフル・デイズ(Ada Apa Dengan Cinta?) 」、ロングランの後により長いバージョンも上映された「エッフェル、恋に落ちて(Eiffel...I'm in Love)」 、エジプトを舞台とするイスラム風味のメロドラマ「愛の章(Ayat-Ayat Cinta)」 などである。これらのヒットには人気歌手による主題歌や映画原作本の出版などメディアミックスによる宣伝も大いに寄与している。
 恋愛映画と並ぶ有力なジャンルであるホラー映画も毎月のように新作が封切られている。ただ、最近はキョンシーに似ている妖怪ポチョンと、女幽霊クンティラナックを競演あるいは対決させるなど、ネタ切れの様相も呈しているようだ。とは言うものの、お色気要素を強めたり、日本のAV女優小沢マリアらを招聘して話題作りをしたり、あるいは血まみれ惨殺シーンを見せ場とするなど、あの手この手で観客の関心を集めようとするこのジャンルの人気には根強いものがある。映画の原型ともいうべき見世物に最も近いジャンルゆえか、評論家からまともに批評されることはほとんどなかったが、近年は本格的な研究も始まった。(四方田、Veronica Kusuma)例えば、60年代に共産主義に同調し無実の罪で非業の死を遂げた大学生の亡霊が現代に蘇る「赤いランタン(Lantera Merah)」は隠蔽された歴史の回復を主題としている点で、観客に一時的な恐怖を与えるだけの通常のホラー映画の枠を超えていると言える。四方田は「このフィルムが最終的に告げているのは、もっとも深遠なる恐怖とは幽霊の群発的な出現にあるのではなく、かかる幽霊を生み出した社会の全体に政治的に偏在しているという真理にほかならない」(135頁)と結論付けている。
 技術面での大きな変化は21世紀に入って本格化したデジタル化である。芸術派ガリン・ヌグロホ監督の「ある詩人(Puisi Tak Terkuburkan)」 はデジタルビデオの特性をフルに活用し、従来は不可能だった長回しを大胆に取り入れた。ホラー映画やアクション映画においてもデジタル処理が増えている。またデジタル機材の導入は製作コストを比較的安く抑えることも可能とし、小規模な製作スタッフによるインディーズ系の映画作家が登場するようにもなった。
 またここ10年で製作者の世代交代も進んだ。(詳細はコラム参照)90年代初頭に長編デビューし国際的に最もよく知られている前述のガリンに続き、ジャカルタ芸術学院(IKJ)出身の監督やスタッフ、あるいは海外で映画製作を学んだ新世代が映画界の主流となった。彼らの経歴は70‐80年代に活躍した監督の多くが下積みとしての助監督を何年か務めてからデビューし、スタッフの多くが現場からの叩き上げだったのとは対照的である。つまり監督及びスタッフの「高学歴化」が進み、技法的にも70-80年代のような泥臭さは影をひそめ、見かけはスマートな作品が増えていると言えよう。

インドネシア映画はどこへ行く

 以上、駆け足で国産映画の歴史をたどってみた。最後に今後国産映画がさらに発展するために何が欠けており、何が必要とされているのか、考察してみたい。
 第1に興業と配給。90年代と異なり国産映画がシネコン21グループで上映されるようになったことは進歩としても、同グループが国内のスクリーンの8割以上を独占している現状は健全な競争の観点からは決して望ましくない。またスクリーン数自体も2億4千万の人口からすれば非常に少ない。最盛期の90年には6800スクリーンが全国にあったとされるが、その後経済危機やTV放送そして海賊版DVDの浸透によって多くの映画館が廃業に追い込まれ現在は600スクリーンほどである。政府による映画興行振興策なしでは21グループ以外のスクリーン数を増やすのは容易ではないだろう。
 なお、今年初めより海外フィルム輸入関税の値上げを財務省が断行し、文化観光省もこれを支持、これに反発したハリウッド映画配給業者が大作映画の上映をボイコットする異常事態が半年近く続いている。7月末になり、ようやく「ハリーポッター」の最終作が上映される運びとなったものの、あくまでも一時的な措置らしく、完全な解決にはもうしばらく時間がかかりそうだ。政府としては21グループの興行及び配給の独占状態を廃し、海外映画会社にインドネシアでの事務所開設を促して、より自由で健全な競争の実現を目指しているようである。しかしハリウッド大作を市場から締め出したところで、国産映画の観客数が必ずしも増えるわけではなく、むしろ映画館経営者が悲鳴を上げているのが実態である。外国映画と競争できる質の高い国産映画が求められている状況は依然変わっていない。
 第2に製作体制。ジャカルタ一極集中の弊害というべきか、多くの映画はジャカルタの製作会社でジャカルタに住む映画人によって作られている。当然舞台もジャカルタあるいはその周辺になることが多く、結果インドネシア映画といいつつも実はジャカルタ映画ばかりを観客は見せられている。インドネシア同様に多様性に富む中国やインドと比較してみると、この事実はより明確になる。中国では各地に撮影所があった経緯から現在でも地方発の映画が作られているし、世界一の映画大国インドでは州ごとに異なる言語で映画が製作され、地域ごとの独自性が保たれている。もし仮にインドネシアが建国間もない時期に地方ごとに撮影所や製作拠点が官民いずれかによって置かれていたら、独自の「地方映画」がその後生まれていた可能性は必ずしも否定できない。
 無論、地方を舞台とした作品がないわけではない。特にガリン・ヌグロホはフィルモグラフィーを見れば一目瞭然で、地方を舞台とした作品がほとんどを占め、地方語や地方文化を積極的に自作の中に取り入れている。しかし市場を占める大多数の作品はジャカルタが舞台、よくてジャワ島内である。インドネシアが「多様性の中の統一」を国是とするならば、地方文化を地方出身者が映画化し、スマトラをスラウェシをカリマンタンをマルクをパプアを舞台とする作品がもっとあってしかるべきだろう。映画化されていない題材は地方にこそあるのだと思う。
 第3に国外への進出や合作。「ビューティフル・デイズ」や「ザ・タイガーキッド」のように日本をはじめとした国外に売れた作品は確かにあるが、例えば近年国際進出が目覚ましい韓国やタイとは比較にならないほど少ない。国際映画祭に出品される作品もあるにはあるが、有名な映画祭の定番を占める位置には程遠い。例えば直近のアジアフォーカス・福岡映画祭ではゼロであるし、カンヌ・ベネチア・ベルリンの三大映画祭でのコンペ参加は近隣諸国のシンガポール・フィリピン・マレーシア・タイと比べて非常に出遅れている。
 また海外の俳優や技術者の招聘、あるいはヨーロッパや日本からの資金提供などはあっても、製作面で外国会社とがっぷり四つに組んだ合作は非常に少ない。本格的な合作が少なく、海外市場を意識しないことが、結果としてTVドラマとさほど変わらない映画が多数を占めている原因というのは穿ちすぎであろうか。しかし、「愛の章」のようなエジプト人やエジプト社会を否定的に捉えている映画をイスラム諸国へ輸出しようと試みることに、関係者の国際的なセンスの欠如を感じてしまうのだ。
 もちろんガリンのような海外映画祭の常連監督は何人かいるわけだが、まだまだ国産映画界全体で海外進出や合作を積極的に推し進めるような姿勢には程遠い。この点官民一体で映画振興に努め、瞬く間に世界の注目を集めるようになった韓国の事例を大いに参考にしてほしいと思う。
 最後に過去作品の再評価。現存している過去作品はシネマテークに所蔵され、JBクリスタント氏による「インドネシア映画カタログ」も出版(現在はウェッブ公開)されているが、肝心の作品が上映されて人目に触れない限り、それらは存在しないに等しい。残念ながら日本やアメリカのように多くの過去作品がDVDで発売される状態ではないのがインドネシアの現状である。過去作品のDVDが未発売なのは権利問題や需要がないなどの理由が考えられるが、特別上映でもテレビ放映でも構わないからもっと過去作品は広く見直されるべきである。現時点から見てどれだけ稚拙な技法であっても、語り口が遅くても、説明過多であっても、当時の評価が低くても、もっと多くの人に見られるべきであろう。なぜなら過去作品こそ発見の宝庫であり、次世代のインドネシア映画のヒントがつまっているからだ。
 私自身の経験で言えば、単純に風景や登場人物のしぐさが現在とは全然違うなどといった些細なことから、同じジャンルでも時代によって描き方がかなり異なること、当時の時代風潮や風俗が製作者の意図とは関係なく映っていることの発見がとても刺激的である。とりわけ、製作者がインドネシアとは何か、借り物ではない自分たちの独自性は何か、探究した結果が画面から伺える瞬間こそ、インドネシア映画を見ることの醍醐味である。私にとってそうした瞬間とは、「自由の戦士たち」で主人公が愛情と友情の板挟みに悩んだ末に敵側を夜襲する場面であり、「セクシー女中イネム3(Inem Pelayan Sexy 3)」 のパワフルな女中大行進であり、「青空が僕の家(Langitku Rumahku)」でちらりと「国家」が見えるところであり、「天使への手紙(Surat untuk Bidadari)」で主人公が画一的な学校教育に反発する場面である。これらは何気ない場面であったりするが、実は国産映画だからこそ描けた面もあるのだ。外国映画とは違う国産映画の独自性を追求すること。そうした先人たちの過去作品という遺産を一般観客も製作者ももっと生かしてほしいと思う。
 昔からインドネシアには豊富な天然資源があり経済成長の大きな潜在性があると言われてきたが、近年まで掛け声だけに終わっていた感がある。映画にしても同様であろう。足りない部分も少なくないが、その分まだまだ発展する余地は大きい。インドネシア映画のますますの発展を祈念して筆を置きたい。

参考文献
石坂健治編『インドネシア映画祭カタログ』国際交流基金アセアン文化センター、1993年
猪俣良樹『日本占領下・インドネシア旅芸人の記録』めこん、1996年
松岡環『アジア・映画の都』めこん、1997年
四方田犬彦『怪奇映画天国アジア』白水社、2009年
JB Kristanto, Katalog Film Indonesia 1926-2005, Nalar, 2005
Gayus Siagian, Sejarah Film Indonesia, FFTV-IKJ, 2010
Krishna Sen, Indonesian Cinema-Framing The New Order, Zed Books, 1994
CINEMAYA , Autumn 1997 No38, New Dehli

<更新履歴>
2017.12.28 ラベル追加

2017年12月9日土曜日

映画評『カルティニ』(2017年)

チカラン日本人会メールマガジン 「生々流転」vol39に掲載。


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄

第3回 映画『カルティニ』が描いたものと描かなかったもの

 前回に続き今回もインドネシア女性解放運動の先駆者にして国家英雄ラデン・アジェン・カルティニについて、今年4月に公開された映画 Kartini (ハヌン・ブラマンティヨ監督)を手掛かりに、カルティニの実像とフィクションの関係を語ってみたいと思います。まずは映画の紹介から。




2017年版の映画 Kartini ポスター


 カルティニを主人公とした映画は、1982年にR.A.Kartini(シュマンジャヤ監督)が、また昨年2016年にはSurat Cinta Untuk Kartini(アズハル・キノイ・ルビス監督)が、それぞれ製作公開されており、今作で三度目の映画化となります。82年の作品は日本でも映画祭で上映され、その後NHKBSでも放送されました。2017年版はインドネシアではトップ女優の一人と目されるディアン・サストロワルドヨが主演し、製作に時間も予算もかけたことが推察される堂々たる作品でした。

 日本でも単館劇場公開された『ビューティフル・デイズ』(2001年インドネシア公開、原題 Ada Apa Dengan Cinta? )の主演を務めたディアン・サストロは正統派の美人女優、出演作品こそ多くはないものの確かな演技力と美貌、そして人気を考えれば、インドネシアの国家英雄を演じるには正に適役と言えるでしょう。また、劇中でカルティニの実母を演じるのは日本をはじめ海外でもよく知られた国際派にして国民的女優のクリスティン・ハキム、映画内ではカルティニに辛くあたる義母は82年版を監督したシュマンジャヤ監督の娘ジュナル・マエサ・アユ、慈愛あふれる父親はベテラン俳優のデディ・ストモ、可愛い妹二人にはアユシタ・ ヌグラハとアチャ・セプトリアサ、僅かな出番ながらカルティニに決定的な影響を与えた兄にはイケメン男優レザ・ラハディアン。いずれも実力派の俳優がしっかり脇を固めており、観客は安心して物語に身を委ねることができます。



上が実在のカルティニ姉妹。左よりカルティニ、カルディナー、ルクミニ。
下が2017年版で演じた女優たち。
ディアン・サストロワルドヨ、アユシタ・ヌグラハ、 アチャ・セプトリアサ。


 ここで本作の具体的な内容に踏み込む前に、一般論として偉人伝をどのように映像化するか、伝記映画の在り方について考えてみたいと思います。


 過去120年の映画史において、偉人伝はそれこそ無数に撮られてきました。今思いつくだけでも、スティーブ・ジョブズ、サッチャー、ホーキング、チェ・ゲバラ、チャップリン、ガンディー等々、おそらく作品リストを作るとすれば長大になります。近年は技術の進歩もあり、本人そっくりの俳優が仕草や喋り方まで真似て観客を唸らせることもしばしばです。しかしどれだけ実在の人物に似せることに成功しても、彼/彼女の人生に何が起きたか、そして彼/彼女は何をしたか、既に知っている多くの観客を満足させることは容易ではありません。よく知られた挿話をつなぎ合わせただけではただのダイジェスト版になってしまいますし、逆になんでもかんでも描こうとすれば大味である、冗長すぎると酷評されます。特に近現代の人物の場合詳細な伝記が出ていることが多いので、あの挿話が語られるのに別の面白い挿話は何故省略するのだ!と観客から突っ込まれることは避けられません。何より存命中の人物でない限り、私たちは結末を既に知っているわけで、製作者としては最大公約数的な作品を目指すことが多いように思えます。一方、才能ある野心的な監督の場合、時系列をバラバラに組み替えたり、類似の出来事を反復したり、あるいは回想場面を効果的に挿入することで、一般的に知られている偉人の別の一面を浮き彫りにしようとするようです。


 さて、このようなある種の制約がある伝記ものとして、本作はどのようなアプローチを取っているかと言えば、極めてオーソドックスな方法、カルティニの子供時代から結婚するまでを時系列で語っていきます。回想シーンは僅か、語り手の視点が入れ替わることもなく、彼女の人生をよく知らない観客にとっては分かりやすい語り口と言えるでしょう。ヒットメーカーであるハヌン監督らしい、奇をてらわない堅実な演出です。と同時に、私のようなうるさ型の観客も満足させるいくつかの美点を本作は備えてます。


 まず第一に時代考証です。ジャワ文化が高度に洗練された礼儀作法と言語体系を持っていることは有名ですが、本作ではそれらを忠実に再現しています。自分より目上や位の高い人物には拝むような姿勢を取り続け、決して腰を上げてはならない様子などを本作で初めて見た人は少なくないでしょう。また台詞の多くはジャワ語ですが、オランダ人との会話や手紙は勿論オランダ語、早い話インドネシア語字幕がこれほど出てくるインドネシア映画はそうそうありません。私はジャワ文化にもオランダ語にも精通してないので、その正確さをはかることは出来ないものの、映画製作者たちが衣装や作法や言語を忠実に再現しようとしていることは疑いようがなく、観客をカルティニが生きていた時代へタイムスリップさせることに成功しています。


 第二に婚前閉居(ピンギタン)のため行動が制約されていた事実を逆手に取り、いくつかの幻想場面や映画的サスペンスを効果的に挿入、実際には非常に内省的だったと思われるカルティニの一生を十分躍動的なものとして描写して平板さから逃れています。読書に没頭しているうちに物語の登場人物たちが目前に現れ対話してみたり、兄たちの意地悪で外に出られない姉妹が裏をかいて伝言を届ける場面には思わずニヤリとしてしまいます。中でも見事な映画的な処理として成功しているのは、カルティニがオランダ人のペンパルであったステラと言葉を交わす場面ではないでしょうか。姉妹と日本のキモノを浴衣のように着て写真を撮るべくフラッシュが焚かれた次の瞬間、風車のある典型的なオランダの田園風景の中に翔んでいるカルティニ! オランダ留学の夢を持ちながら結局は諦めるしかなく、親友ステラと実際に会う機会もなかった史実を思うと、短いながらももっとも印象的な名場面となっています。


 第三に母と娘の物語として一本筋を通した構成にしたこと。カルティニの実母は身分が低くあくまで妾だったため、幼少期以降は実母を母と呼ぶこと、一緒に寝ることが許されず、父の正妻を母と呼ぶしきりに従う場面を冒頭に置き、終盤は部屋に閉じ込められた娘を実母が救い出し二人だけの対話を通して親子の絆を回復、二人の母同様に一夫多妻を受け入れた後の結婚式では敢えてしきたりに逆らうことで実母への深い感謝を示して本作は幕を閉じます。今は廃れたものの、かつては一大ジャンルだったお涙頂戴の母ものの片鱗を今作は見せると同時に、時代を超えて観客の情感に訴える構成は結果として強い普遍性を獲得していると私は思います。封建主義の擁護ではないかとの批判があることは承知の上で、しかし物語としてはスッキリしており、史実とのバランスもある程度取れていることは評価すべきでしょう。



日本のキモノを着ているカルティニ姉妹。1903年撮影。
当時欧米で流行りのジャポニズム(日本趣味)の波が中部ジャワの
ジュパラにも届いていたのだろうか。


 以上、本作の見どころを数点述べてみましたが、では逆に本作が描かなかったこと、欠けているものは何でしょうか?

 それはナショナリズムであり、或いは植民地支配の実態を示す描写に他なりません。これは昨年の『カルティニへの恋文』と比較すると明確です。後者ではカルティニとオランダ人との短くも重要な対話が浜辺で2回あります。1度目は「原住民は立ち入り禁止」の看板がある浜辺でオランダ人の少女たちに向けて看板の内容を抗議する場面、2度目は彼女のオランダ留学を後押しするはずだったアベンダノン氏から留学の夢を諦めるよう告げられる場面。共に相手はオランダ語を話すのですが、オランダ語が流暢だったはずのカルティニに劇中では敢えてインドネシア語で反論させています。これは嘘っぽいというだけでなく、ナショナリズムの論理をリアリズムよりも優先させた結果と私は解釈しています。率直に言って、『カルティニへの恋文』は強引にフィクションの人物を造形したためにご都合主義が目立ち、映画全体の出来としてはあまり良くないのですが、この二つの場面をもって、ひょっとしたらインドネシア人の民族主義者はこの作品の方を『カルティニ』よりも高く評価するかもしれません。その位、分かりやすいナショナリズムは希薄なのが本作の特徴です。


 何よりもここには「良きオランダ人」しか登場しません。ジャワ戦争がとうの昔に終結し、オランダ植民地支配が既にどっぷり根を下ろしていたのが当時の中部ジャワとは言え、カルティニも家族もその周囲の人間も間接統治とは言え、オランダによる支配に何の疑問も持っていないように描かれ、その矛盾が暴かれることもありません。あまりにもオランダ人たちを物わかりの良い、地元の文化を尊重する、親切な紳士淑女然と描いている点はやや不自然と指摘しなくてはなりません。何もオランダ人を悪人と描写していないから、本作はダメだという立場を私は取りませんが、ただ死後まとめられたカルティニの書簡集を倫理政策推進の上でも利用したオランダ政府、何よりカルティニに勉学の夢を吹き込みながら最終的には梯子を外した疑惑が濃厚なアベンダノン夫妻、彼らへの言及や描写が全くなされていないことには納得のいかないものを感じています。ここで例えば同時代人のチュッ・ニャ・ディンがオランダにとってどのような存在であったかを考えてみれば、カルティニがオランダにとって都合の良い存在であったことは否定できないでしょう。


 ただカルティニの名誉のために補足しておけば、彼女はオランダ語を通じて近代的精神を身につけジャワ社会の因習に厳しい目を向けましたが、決して盲目的な欧化主義者ではなく、むしろオランダ人の偽善ぶりをあけすけに批判もしてます。オランダ語を修得し自己を客体化することが出来たからこそ、自らが属する社会の美点も欠点もよく理解出来たわけです。本作に出てくる挿話の一つ、兄からは田舎くさいと馬鹿にされていた木彫りの価値を認め、職人たちに博覧会に出展させる作品を作らせたことは正しくカルティニによる「伝統の再発見」でした。


 本作が描いたこと描かなかったことをこうして列挙してみて改めて気づくのは、カルティニという一人の聡明な女性が相反する考えや価値観を同時に持つためにその狭間で悩み苦闘する姿です。それは近代ゆえ、植民地支配下のジャワに生まれたが故の苦悩ではあります。しかし今現在も女性が直面する結婚や進学や男女不平等などの諸問題に引きつけてカルティニの一生を振りかえってみれば、彼女は我々観客の身近な隣人ではないでしょうか。


 彼女の人生は僅か25年でしたが、その書簡は今なお我々にインスピレーションを与え続けています。彼女の一生をどのように解釈するか、本作はあくまでその一つであり、より多様な解釈が本作の観客の中から生まれてくることを私は期待したいと思います。


 さて次回ですが、対照的な二人の女性国家英雄に続き、「共和国の父」と呼ばれる神出鬼没の共産主義者タン・マラカを取り上げる予定です。では、また来月!


<参考文献>

Seri Buku Saku TEMPO: Kartini
http://www.penerbitkpg.id/book/seri-buku-saku-tempo-kartini/

<YOU TUBE>
カルティニ(2017年)予告編
R.A.カルティニ(1982年)
カルティニへの恋文(2016年)

<映画データ>
原題 Kartini
劇場公開日;20174月19
製作国;インドネシア
言語;ジャワ語、オランダ語、インドネシア語
スタッフ;製作 ロバート・ロニー
     監督・脚本 ハヌン・ブラマンティヨ
     共同脚本 バグス・ブラマンティ
キャスト  ; ディアン・サストロワルドヨ、アチャ・セプトリアサ、アユシンタ・ヌグラハ、デディ・ストモ、ジェナル・マエサ・アユ、クリスティン・ハキム、レザ・ラハディアン


<更新履歴>
2017.12.12  見出し削除、掲載メルマガ明記、参考文献追記
2018.1.6  ラベル変更