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2017年12月21日木曜日

インドネシア映画の過去・現在、そして可能性

日本インドネシアNGOネットワーク(JANNI)会報76号(2011年8月)に掲載されたインドネシア映画についての原稿を再掲。本文のこれとは別に気になる映画人やトピックについては別にコラムも書いた。

今一度インドネシア映画の研究に時間を割きたい...



インドネシア映画の過去・現在、そして可能性
轟英明(ジャカルタ在住)

はじめに

 ここ数年明らかにインドネシア映画(以下国産映画)は興行的にも内容的にも好調の波に乗っている。インドネシアではシネコンでの上映が一般的だが、最低1本は最新の国産映画がシネコンで常に上映されていると言っても過言ではない。(例外は各種娯が自粛される断食月の時期)あるいはDVDショップへ行けば、近年上映された国産映画を見つけることは海賊版、正規版を問わず困難なことではない。
 日本の映画事情しか知らない人にとっては当たり前のことでも、20年前から国産映画を見てきた私のような人間にとってはこうした現状は実に感慨深く思える。何故なら私が国産映画を見始めた頃、国産映画は瀕死の状態だったからだ。ようやく国産映画を上映している映画館を見つけたと思ったら、しょぼい出来のソフトポルノでがっかりしたり、昔の映画のVCDを購入したもののトリミングされた上にひどい状態の画面、当然字幕なし、結局途中で挫折したこともあった。無論映画の質やジャンルに関して言えば今でも不満は多々あるが、以前よりも作品の選択肢が広がったことは間違いなく、しかも近年は多くの作品が英語インドネシア語字幕付DVDで発売されていることは歓迎すべき変化である。そう、インドネシア映画界は間違いなく活況を呈しているのだ。
 しかし、動画サイトで一瞬にして世界につながると同時にあっという間にそれらが忘れ去られていくデジタル時代に、国産映画は今後も活況を維持できるだろうか?活況のように見えて実は多くの人の記憶に残らない映画が増えているだけなのではないか?
 前置きが長くなったが、この稿では国産映画の歴史を振り返ると共に、今後目指すべき方向性とその可能性を未来への展望として述べてみたい。

国産映画史の時代区分

 国産映画史を振り返る際、国内の政治変動と切り離して論じることは不可能である。ここでは便宜的に国産映画史を以下の4つの時代に分けて論じる。①オランダ植民地時代及び日本占領時代(1926-1945)③独立からスカルノ失脚までの旧秩序時代(1946-1966)④スハルト独裁による新秩序時代(1967-1998)⑤スハルト退陣後の改革時代(1999-2011)。なお、日本語の映画題名は日本で劇場公開あるいは映画祭等で上映された場合にはそちらを優先した。

オランダ植民地時代及び日本占領時代 -国産映画の黎明期(1926-1945)

 19世紀の終わりに発明された映画がオランダ植民地時代のインドネシアで初めて上映されたのがいつどこだったのか明確な記録はないが、1900年にはバタビア(現在のジャカルタ)において映画が上映されたことが確認されている。(四方田、57頁)1905年には常設の映画館ができたものの、ヨーロッパ人によるヨーロッパ人のための映画館だったようだ。(松岡、212頁)
 1910年代から映画製作が本格的に始まっていた日本・インド・中国に遅れること十数年、インドネシアでも1926年に初の無声劇映画「猿に化身した男」Lutung Kasarung がバンドゥンにおいてドイツ人 L・ヒューヘルドルプとオランダ人 G・クルーゲルによって作られた。物語は西ジャワの伝説を基にし、出演者は当時のバンドゥン県知事の子供であったが、実際の製作は外国人によって担われた。(JB Kristanto、1)このような枠組み、すなわち俳優や重要でないスタッフは土着系(プリブミ)である一方、製作者や監督や撮影などの重要なスタッフ及び配給は非プリブミ(華僑やオランダ人)という構造はこの後も長く続いた。この時期の主な華僑映画人に上海出身のウォン兄弟、初のトーキー作品「チクンバンの薔薇」Boenga Roos Tjikembang などを製作監督したテー・テン・チュンがいる。興味深いことに当時映画の題材となったのは初期ムラユ語大衆小説「ニャイ・ダシマ」やブタウィの義賊物語「ピトゥン」、あるいは中国本土の古典「西遊記」、「白蛇伝」、「梁山伯と祝英台」だった。(JB Kristanto、1-5)
 37年には南海を舞台としたハリウッド製ミュージカルを翻案した「月光(Terang Bulan)」 が封切られマレー半島やシンガポールへ輸出されるほどの大ヒットとなった。主演女優ルキアは一躍大スターとなり、多くの資本家が映画製作に目を向けるきっかけともなった。それまで年間製作本数は二桁に満たなかったが、40年に14本、翌41年には30本と急増した。(JB Kristanto、5-11)
 しかし42年から始まる日本軍政は国産映画の興隆にストップをかけた。ほぼ全ての映画製作会社は閉鎖され、日本軍の統制下にあるジャワ映画公社(のちに日本映画社)のみが製作を担ったからである。日本映画社は主にニュース映画・文化映画を製作したため、劇映画は「闘争(Berdjoang)」 や「対岸へ(Keseberang)」 など数本作られたのみだった。(JB Kristanto、11-12)上映作品を厳しく規制された映画館はその多くが閉鎖を余儀なくされ、戦前から活躍していた映画人、特に俳優の多くは大衆演劇サンディワラへ活動の場を移していった。(猪俣、99頁)その一方、日本軍は啓民文化指導所の映画部門で演出家や脚本家を養成し、プロパガンダを通してであったがプリブミ系スタッフはオランダ時代よりもより深く映画技法を学ぶ機会を与えられた。また移動巡回隊による映画上映はインドネシア語普及にも一役買っていた。(倉沢、79頁)結果として日本軍占領時代に独立後の国産映画隆盛の素地が作られたとも言えるだろう。

独立からスカルノ失脚までの旧秩序時代 -高揚するナショナリズム(1946-1965)

 インドネシアが独立を宣言した45年から47年にかけての劇映画製作本数はゼロであるが、ニュース映画が日本映画社から機材を引き渡されたインドネシア映画報道社によって撮影されている。劇映画の製作が復活するのは48年からであり、早くも50年には23本、ピークの55年には65本と記録されている。その後はスカルノ独裁政権下の政情不安や地方反乱、インフレの影響などもあって低迷し、40本を上回るにはスハルト政権下の71年まで待たなくてはならなかった。
 50年は国産映画にとって記念碑的な年である。初の民族系(プリブミ)資本による製作会社がほぼ同じ時期に設立された。芸術主義志向の映画監督ウスマル・イスマイルによるプルフィニ(PERFINI)と、商業主義志向の敏腕製作者ジャマルディン・マリクによるプルサリ(PERSARI)である。プルフィニが設立され、第1作「血と祈り(Doa Dan Darah、又はThe Long March of Siliwangi)」 の撮影が開始された3月30日はその後国産映画の日と政府によって定められている。 (Gayus Siagian、77-79)
「血と祈り」は独立戦争下のインドネシア人部隊がジョグジャカルタから西部ジャワへ行軍する物語であり、イタリア・ネオレアリズモの影響が感じられる作品である。素人俳優を起用し、セット撮影よりも野外ロケを多用したこの作品は、その後「独立戦争もの」と分類されるジャンルの嚆矢でもある。今作で特徴的なのは後年の類似作品のような声高いナショナリズムはむしろ控えめで、英雄賛美もあまり感じられない点だろう。主人公である部隊長はオランダ人混血女性にモーションをかけるかと思うと、従軍看護師にもアプローチするという優柔不断さ。行軍途中でダルル・イスラム軍支配下の村落で夜襲を受ける場面、退役した主人公が共産党員によって銃殺されるラストシーンなどは当時の事情を知らなければ容易には理解しにくい。現在残っているフィルムは音声も画面も劣化が激しく、しかも全体的に遅いペースで(文字通りのリアリズム?)物語が進み、戦闘シーンでは兵士の勇壮さはあまり強調されないので、単純に見て面白い作品とはいささか言い難い。しかし、実際の戦争終結から間もない時期に製作された今作こそが、おそらく戦争の実態により近いものであり、後年の類似作品の方がむしろ神話化された物語なのだろう。
 実際、10年後にウスマル自身によって撮られた「自由の戦士たち(Pedjuang)」では独立の大義に懐疑的なヒロインこそいるものの、全体のトーンとしては明朗そのものである。ロマンスやアクションなど娯楽要素の比重が増え、「血と祈り」とは異なり、敵であるオランダ軍が実に憎々しげに描かれている。
 ウスマルの盟友であったジャヤクスマのデビュー作「露(Embun)」やウスマルの「夜を過ぎて(Lewat Djam Malam)」では独立戦争後に復員兵が社会復帰することの困難さが語られている。戦後の社会にうまく適応できない生真面目な主人公の苦悩と、事業で成功した戦友や上司の欺瞞や横暴が対比され、独立とは一体何のため誰のためだったのかが問われている。こうした視点は後年のナショナリズムをテーマとした作品には見られないものであろう。
 外国映画に負けない質の高い国産映画の製作を目標とした彼らの作品からは、シリアスな題材であっても明るく前向きなナショナリズムや理想主義が感じられる。インドネシア文化とは何か、インドネシアの独自性とは何かを真摯に追求し、それを映画として結実すること。その一例はミナンカバウ地方とその文化を背景とするシラット映画「チャンパの虎(Harimau Tjampa)」、 ゴーゴリ原作の「検察官」を当時のインドネシアの文脈に換骨奪胎した政治コメディ「賓客(Tamu Agung)」などに見られる。(Hanan、40-41)
 一方、実業界出身でナフダトゥール・ウラマー党の政治家でもあったジャマルディン・マリクは隣国フィリピンやマレーシアとの合作、映画先進国インドからの監督・スタッフの招聘などを積極的におこなった。国民国家の枠組みが確固たるものになる以前ゆえにできたことなのか、いずれにしてもインドネシアのMGMたらんとした彼の野心的な行動力は国産映画史の中で異彩を放っている。
 当時そして現在も国産映画の最大のライバルはアメリカのハリウッド映画であるが、50年代から60年代にかけては、シンガポールを本拠地とする中国系映画会社ショウブラザーズ製作のマレー語映画や歌と踊りが満載のインド娯楽映画、またフィリピン映画もかなりの人気を博していた。国産映画の人気に陰りが見え始めると映画人はスカルノ大統領に国産映画の保護を要請し、輸入映画本数が制限されるようになったものの、それは国産映画の質向上には必ずしも結びつかず、経済状況の悪化に伴い65年には製作本数は15本まで減少している。また、当時一大勢力を誇ったインドネシア共産党傘下の文化団体レクラによって、帝国主義を喧伝するものとしてアメリカ映画のボイコットが呼びかけられたほか、バフティアル・シアギアンらレクラ所属の映画監督による左派映画も製作された。60年代前半から65年の9月30事件までの期間は、映画界においても共産党勢力と非・反共産党勢力の争いが激しかったようである。(Sen、27-49)

スハルト独裁による新秩序時代 ‐国産映画の産業化そして斜陽化(1966-1998)

 9月30日事件とその後の政治的動乱は映画界にも影響を及ぼし、69年の製作本数はとうとう9本まで減少した。またこの間中国系住民への迫害が続きスハルト政権の強圧的な同化政策もあいまって中国系の間でインドネシア名への改名が進んだ。ただ、68年にはカラー映画「ジャカルタ‐香港‐マカオ」が現地ロケで撮られたり、70年代初期の国産映画や香港映画ポスターに中国語表記が一部あるなど、実際に中国色が社会の表から消えるのにはしばらく時間がかかったようだ。
 60年代後半から70年代初期は白黒からカラーへの移行が進み、題材も世界的な潮流に倣ってセックスと暴力が銀幕を覆うようになった。とは言え、新秩序体制下の厳しい検閲のため描写そのものは外国映画と比べればおとなしいものだった。50‐60年代に活躍したウスマルやジャマルディンが70年、71年に相次いで若くして亡くなったのはこうした時代の変化を象徴する出来事だったと言える。
 70年代は題材が多様化し、従来のラブロマンスやコメディに加え、怪奇映画やコミック原作のアクション映画も作られるようになった。前者の代表作は怪奇映画の女王ことスザンナ主演の「墓場での出産(Beranak Dalam Kubur)」 やシラット映画の王者ことバリー・プリマ主演の「原始的(Primitif)」 、後者には「幽霊洞窟の盲人剣士」シリーズ( Si Buta dari Goa Hantu)」 が挙げられる。コメディ分野でも今なお愛される歌手兼俳優のベニャミン・Sが「モダンボーイ・ドゥル(Si Doel Anak Modern )」などで人気を博した。お色気コメディ、都市風俗、ドタバタナンセンス、独立戦争、シラット、大衆歌謡ダンドゥットなど、ジャンルの多様化が進む一方、それを専門とする監督や俳優が生まれ、映画がシリーズ化されたのもこの時期の特徴だろう。
 70年代から80年代を代表する監督としては、中国系のトゥグ・カルヤと、60年代にモスクワで映画を学んだシュマンジャヤを挙げたい。
 トゥグ・カルヤは「初恋(Cinta Permata)」、「母(Ibunda)」、「追憶(Doea Tanda Mata)」など繊細な心理劇を得意としたが、「1828年11月(November 1828 )」のような歴史大作も撮っている。「初恋」はその後国内外で最も著名な映画人となったクリスティン・ハキムの記念すべきデビュー作であり、その後何度もコンビを組むスラメット・ラハルジョとの初共演作としても記憶されている。今やベテラン俳優となった二人の若々しさが今日見ても実にまぶしい限りだ。「母」はバラバラになりかけた家族が最終的には母の元に集まりその愛情を確かめ合う物語。不倫、駆け落ち、パプア人との異人種結婚などの難題があっけなく解決してしまうのはご都合主義と言えなくもない。ただ、それは監督主導というよりはむしろスハルトの新体制が求めた面もあったように思える。時代が要請していた家族主義と言えるかもしれない。特にパプア人(劇中ではイリアン人)を知的でハンサムなエリートと設定しジャワ人の娘が彼に魅かれる点に、国民統合を強く押し進めていた新体制の意図あるいは時代の風潮を感じる。演劇界出身の監督の本領はむしろ結末部分よりも、劇中劇で主役を演じる息子の苦悩が実生活と劇中で重なりあうメタ構造的な演出部分にあるのだろう。
 シュマンジャヤは様々なジャンルを横断的に次々に撮った野心的な監督だった。映画評論家佐藤忠男氏がインドネシア映画のベストに挙げる下級公務員の悲喜劇「ママッド氏(Si Mamad)」はチェホフを原作としていたためかインドネシアの現実とは違いすぎるとして批評家からの評判は決して高くなかったようである。(佐藤、113-115頁)「無神論者(Atheis)」は主題が神の実在についてだったためイスラム勢力や反共を掲げていた体制を刺激し、製作段階から論議を巻き起こした。敬虔なムスリム青年の日本占領前から敗戦時までの思想遍歴をたどる内容だが、後半部で「戦艦ポチョムキン」の最も有名な「オデッサの階段」場面をいただいている。(JB Kristanto、113)一方、大ヒットを飛ばした「ドゥルの少年期(Si Doel Anak Betawi)」では自身の経験を交えたリアリティが感じられ、続編「モダンボーイ、ドゥル」ではより軽妙さが増すと同時に風刺的な要素も強くなっている。その他の作品、「カルティニ(Kartini)」では歴史劇らしい風格を見せ、従軍慰安婦を主人公とした「欲望の奴隷(Budak Nafsu)」では主人公を輪姦する日本軍人たちを表現主義的に描き、遺作となった「オペラ・ジャカルタ(Opera Jakarta)」では複雑な群像劇をダイナミックに演出している。(佐藤、28-29頁)こうしてそれぞれの作品を短く取り上げるだけでも、手掛けたジャンルが多様であることがわかる。しかも各作品のスタイルが相当に異なっているところが、他の監督との大きな違いであろう。彼が85年に52歳の若さで亡くなったことは国産映画界の大損失であった。
 スハルト政権時代の32年間、製作本数は77年の124本と90年の117本、2回ピークを迎えている。71年から91年までの21年間、50本を下回ったのは75年のみだった。浮き沈みはあるもののコンスタントに国産映画は作られてきたのであり、50年代には極めて貧弱な設備と限られた資本しかなかった国産映画はこの時期に産業化したと言えよう。しかし、90年代に入り民間テレビ放送の本格的開始とアメリカ映画の攻勢により製作本数は急激に減少、スハルトが退陣した98年はわずか4本であった。この時期に国産映画が絶滅寸前のどん底まで落ち込んだのは上記の要因だけではない。映画館でしか見られないものを作ろうと質の低いお色気ものばかり粗製乱造したこと、当時普及し始めたシネコンでは「オシャレな映画」が優先される一方国産の「下劣な映画」はオンボロな二番館三番館でしか上映されなくなったこと、それがますます観客の国産映画離れを加速する、といった悪循環であった。

スハルト退陣後の改革時代 ‐国産映画の復活と新世代の台頭(1999-2011)

 スハルトが大統領の座を退き、検閲制度が緩くなった後も経済危機の後遺症などが原因で製作本数は急増とはならず、2004年になってようやく31本まで回復した。90年代には国産映画の上映に非協力的だったシネコン21グループが国産映画を上映するようになったのも歓迎すべき変化だった。またシネコンでも一般映画館でも夜市などでの巡回映画館でもない、新たな流通形態としてビデオCD(近年はDVD)販売が一般化し、これによって投資家は劇場公開なしでも資金回収が可能となった。こうして年々製作本数は増加し、2010年には87本に達した。
 作品の傾向としては90年代半ばに粗製乱造されたソフトポルノが減少し、代わって若者向け恋愛映画が市場の多くを占めヒットを飛ばすようになった。主な作品は日本でも劇場公開された「ビューティフル・デイズ(Ada Apa Dengan Cinta?) 」、ロングランの後により長いバージョンも上映された「エッフェル、恋に落ちて(Eiffel...I'm in Love)」 、エジプトを舞台とするイスラム風味のメロドラマ「愛の章(Ayat-Ayat Cinta)」 などである。これらのヒットには人気歌手による主題歌や映画原作本の出版などメディアミックスによる宣伝も大いに寄与している。
 恋愛映画と並ぶ有力なジャンルであるホラー映画も毎月のように新作が封切られている。ただ、最近はキョンシーに似ている妖怪ポチョンと、女幽霊クンティラナックを競演あるいは対決させるなど、ネタ切れの様相も呈しているようだ。とは言うものの、お色気要素を強めたり、日本のAV女優小沢マリアらを招聘して話題作りをしたり、あるいは血まみれ惨殺シーンを見せ場とするなど、あの手この手で観客の関心を集めようとするこのジャンルの人気には根強いものがある。映画の原型ともいうべき見世物に最も近いジャンルゆえか、評論家からまともに批評されることはほとんどなかったが、近年は本格的な研究も始まった。(四方田、Veronica Kusuma)例えば、60年代に共産主義に同調し無実の罪で非業の死を遂げた大学生の亡霊が現代に蘇る「赤いランタン(Lantera Merah)」は隠蔽された歴史の回復を主題としている点で、観客に一時的な恐怖を与えるだけの通常のホラー映画の枠を超えていると言える。四方田は「このフィルムが最終的に告げているのは、もっとも深遠なる恐怖とは幽霊の群発的な出現にあるのではなく、かかる幽霊を生み出した社会の全体に政治的に偏在しているという真理にほかならない」(135頁)と結論付けている。
 技術面での大きな変化は21世紀に入って本格化したデジタル化である。芸術派ガリン・ヌグロホ監督の「ある詩人(Puisi Tak Terkuburkan)」 はデジタルビデオの特性をフルに活用し、従来は不可能だった長回しを大胆に取り入れた。ホラー映画やアクション映画においてもデジタル処理が増えている。またデジタル機材の導入は製作コストを比較的安く抑えることも可能とし、小規模な製作スタッフによるインディーズ系の映画作家が登場するようにもなった。
 またここ10年で製作者の世代交代も進んだ。(詳細はコラム参照)90年代初頭に長編デビューし国際的に最もよく知られている前述のガリンに続き、ジャカルタ芸術学院(IKJ)出身の監督やスタッフ、あるいは海外で映画製作を学んだ新世代が映画界の主流となった。彼らの経歴は70‐80年代に活躍した監督の多くが下積みとしての助監督を何年か務めてからデビューし、スタッフの多くが現場からの叩き上げだったのとは対照的である。つまり監督及びスタッフの「高学歴化」が進み、技法的にも70-80年代のような泥臭さは影をひそめ、見かけはスマートな作品が増えていると言えよう。

インドネシア映画はどこへ行く

 以上、駆け足で国産映画の歴史をたどってみた。最後に今後国産映画がさらに発展するために何が欠けており、何が必要とされているのか、考察してみたい。
 第1に興業と配給。90年代と異なり国産映画がシネコン21グループで上映されるようになったことは進歩としても、同グループが国内のスクリーンの8割以上を独占している現状は健全な競争の観点からは決して望ましくない。またスクリーン数自体も2億4千万の人口からすれば非常に少ない。最盛期の90年には6800スクリーンが全国にあったとされるが、その後経済危機やTV放送そして海賊版DVDの浸透によって多くの映画館が廃業に追い込まれ現在は600スクリーンほどである。政府による映画興行振興策なしでは21グループ以外のスクリーン数を増やすのは容易ではないだろう。
 なお、今年初めより海外フィルム輸入関税の値上げを財務省が断行し、文化観光省もこれを支持、これに反発したハリウッド映画配給業者が大作映画の上映をボイコットする異常事態が半年近く続いている。7月末になり、ようやく「ハリーポッター」の最終作が上映される運びとなったものの、あくまでも一時的な措置らしく、完全な解決にはもうしばらく時間がかかりそうだ。政府としては21グループの興行及び配給の独占状態を廃し、海外映画会社にインドネシアでの事務所開設を促して、より自由で健全な競争の実現を目指しているようである。しかしハリウッド大作を市場から締め出したところで、国産映画の観客数が必ずしも増えるわけではなく、むしろ映画館経営者が悲鳴を上げているのが実態である。外国映画と競争できる質の高い国産映画が求められている状況は依然変わっていない。
 第2に製作体制。ジャカルタ一極集中の弊害というべきか、多くの映画はジャカルタの製作会社でジャカルタに住む映画人によって作られている。当然舞台もジャカルタあるいはその周辺になることが多く、結果インドネシア映画といいつつも実はジャカルタ映画ばかりを観客は見せられている。インドネシア同様に多様性に富む中国やインドと比較してみると、この事実はより明確になる。中国では各地に撮影所があった経緯から現在でも地方発の映画が作られているし、世界一の映画大国インドでは州ごとに異なる言語で映画が製作され、地域ごとの独自性が保たれている。もし仮にインドネシアが建国間もない時期に地方ごとに撮影所や製作拠点が官民いずれかによって置かれていたら、独自の「地方映画」がその後生まれていた可能性は必ずしも否定できない。
 無論、地方を舞台とした作品がないわけではない。特にガリン・ヌグロホはフィルモグラフィーを見れば一目瞭然で、地方を舞台とした作品がほとんどを占め、地方語や地方文化を積極的に自作の中に取り入れている。しかし市場を占める大多数の作品はジャカルタが舞台、よくてジャワ島内である。インドネシアが「多様性の中の統一」を国是とするならば、地方文化を地方出身者が映画化し、スマトラをスラウェシをカリマンタンをマルクをパプアを舞台とする作品がもっとあってしかるべきだろう。映画化されていない題材は地方にこそあるのだと思う。
 第3に国外への進出や合作。「ビューティフル・デイズ」や「ザ・タイガーキッド」のように日本をはじめとした国外に売れた作品は確かにあるが、例えば近年国際進出が目覚ましい韓国やタイとは比較にならないほど少ない。国際映画祭に出品される作品もあるにはあるが、有名な映画祭の定番を占める位置には程遠い。例えば直近のアジアフォーカス・福岡映画祭ではゼロであるし、カンヌ・ベネチア・ベルリンの三大映画祭でのコンペ参加は近隣諸国のシンガポール・フィリピン・マレーシア・タイと比べて非常に出遅れている。
 また海外の俳優や技術者の招聘、あるいはヨーロッパや日本からの資金提供などはあっても、製作面で外国会社とがっぷり四つに組んだ合作は非常に少ない。本格的な合作が少なく、海外市場を意識しないことが、結果としてTVドラマとさほど変わらない映画が多数を占めている原因というのは穿ちすぎであろうか。しかし、「愛の章」のようなエジプト人やエジプト社会を否定的に捉えている映画をイスラム諸国へ輸出しようと試みることに、関係者の国際的なセンスの欠如を感じてしまうのだ。
 もちろんガリンのような海外映画祭の常連監督は何人かいるわけだが、まだまだ国産映画界全体で海外進出や合作を積極的に推し進めるような姿勢には程遠い。この点官民一体で映画振興に努め、瞬く間に世界の注目を集めるようになった韓国の事例を大いに参考にしてほしいと思う。
 最後に過去作品の再評価。現存している過去作品はシネマテークに所蔵され、JBクリスタント氏による「インドネシア映画カタログ」も出版(現在はウェッブ公開)されているが、肝心の作品が上映されて人目に触れない限り、それらは存在しないに等しい。残念ながら日本やアメリカのように多くの過去作品がDVDで発売される状態ではないのがインドネシアの現状である。過去作品のDVDが未発売なのは権利問題や需要がないなどの理由が考えられるが、特別上映でもテレビ放映でも構わないからもっと過去作品は広く見直されるべきである。現時点から見てどれだけ稚拙な技法であっても、語り口が遅くても、説明過多であっても、当時の評価が低くても、もっと多くの人に見られるべきであろう。なぜなら過去作品こそ発見の宝庫であり、次世代のインドネシア映画のヒントがつまっているからだ。
 私自身の経験で言えば、単純に風景や登場人物のしぐさが現在とは全然違うなどといった些細なことから、同じジャンルでも時代によって描き方がかなり異なること、当時の時代風潮や風俗が製作者の意図とは関係なく映っていることの発見がとても刺激的である。とりわけ、製作者がインドネシアとは何か、借り物ではない自分たちの独自性は何か、探究した結果が画面から伺える瞬間こそ、インドネシア映画を見ることの醍醐味である。私にとってそうした瞬間とは、「自由の戦士たち」で主人公が愛情と友情の板挟みに悩んだ末に敵側を夜襲する場面であり、「セクシー女中イネム3(Inem Pelayan Sexy 3)」 のパワフルな女中大行進であり、「青空が僕の家(Langitku Rumahku)」でちらりと「国家」が見えるところであり、「天使への手紙(Surat untuk Bidadari)」で主人公が画一的な学校教育に反発する場面である。これらは何気ない場面であったりするが、実は国産映画だからこそ描けた面もあるのだ。外国映画とは違う国産映画の独自性を追求すること。そうした先人たちの過去作品という遺産を一般観客も製作者ももっと生かしてほしいと思う。
 昔からインドネシアには豊富な天然資源があり経済成長の大きな潜在性があると言われてきたが、近年まで掛け声だけに終わっていた感がある。映画にしても同様であろう。足りない部分も少なくないが、その分まだまだ発展する余地は大きい。インドネシア映画のますますの発展を祈念して筆を置きたい。

参考文献
石坂健治編『インドネシア映画祭カタログ』国際交流基金アセアン文化センター、1993年
猪俣良樹『日本占領下・インドネシア旅芸人の記録』めこん、1996年
松岡環『アジア・映画の都』めこん、1997年
四方田犬彦『怪奇映画天国アジア』白水社、2009年
JB Kristanto, Katalog Film Indonesia 1926-2005, Nalar, 2005
Gayus Siagian, Sejarah Film Indonesia, FFTV-IKJ, 2010
Krishna Sen, Indonesian Cinema-Framing The New Order, Zed Books, 1994
CINEMAYA , Autumn 1997 No38, New Dehli

<更新履歴>
2017.12.28 ラベル追加

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