Translate

ラベル インドネシア の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル インドネシア の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年8月3日金曜日

インドネシアにある日本仏教の寺院 日蓮正宗高開山妙願寺

ずっと下書きのままにしていた記事を今頃アップします。(苦笑)

2017年大晦日と2018年正月に避暑地プンチャック付近にある日蓮正宗の「高開山妙願寺」を覗いてきたので、以下備忘録として写真を貼り付けておきます。

微妙に建築スタイルも行事の進め方も現地化していたのが興味深かったです。
信者はほとんど中国系のようでしたが、一部ジャワ人?もいた模様。家族で参加する合宿、キャンプの様相。
日蓮正宗については以下をご覧ください。この寺を覗くまでご本尊がないことを知りませんでした。イスラームみたいで面白いなあ。

https://id.wikipedia.org/wiki/Nichiren_Shoshu 
http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/nichirenshoshu/jpn/ns_j.html
http://sudati.iinaa.net/Indonesia/Indonesia.html 























2018年1月7日日曜日

「冒険小説を生きた革命家」タン・マラカとは何者か?

新年のチカラン日本人会メルマガに掲載予定。


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
第4回 「冒険小説を生きた革命家」タン・マラカとは何者か?

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今年もインドネシアに関する諸々の事柄を私なりの視点で徒然なるままに書いていきたいと思います。

 さて、前回までチュッ・ニャ・ディンにカルティニと、インドネシアを代表する国家英雄について映画や本を介して書いてきましたが、このまま偉人ネタ英雄ネタばかり続けるのも芸がないと思うので、一応今回で区切りをつけます。取り上げるのは、地球を2周するほど世界を股にかけた革命家であり、生前から民族運動の伝説的ヒーローとして名を馳せながら非業の死を遂げ、日本とも非常に深い因縁があり、長らく忘れられた存在でありながら、スハルト退陣以降のインドネシアで劇的に復活した、西スマトラ(ミナンカバウ地方)出身のムスリム男性。その名は、タン・マラカ。


晩年のタン・マラカ


 ただ残念なことに、前回まで取り上げた二人とは異なり、タン・マラカの場合、彼の生涯や業績を網羅的に紹介する本や伝記映画などが日本語では広く出回っているとは言い難い状況にあります。彼自身の自伝と著作の一部は日本語訳があるのですが既に絶版、数冊の本の中で彼について触れている程度であるため、研究者や歴史愛好家を除けば、彼の名前を聞いた事のある日本人は相当少ないでしょう。よって、彼のことを全く知らない人にもその活動範囲の広さと冒険小説顔負けのスケールの大きさを理解してもらうために、彼の軌跡を以下に書き出してみます。
  • 1897年(諸説あり) 西スマトラのパンダン・ガダンに生まれる。正式名はスタン・イブラヒム・グラル・ダトック・タン・マラカ。
  • 1913年 若干16歳にしてオランダ留学。第一次世界大戦、ロシア革命に影響を受け社会主義思想に傾倒。あだ名は「ミスター・ボルシュヴィスキ」
  • 1919年 帰国。「資本家には地上の楽園、労働者にはこの世の地獄」と呼ばれた北スマトラ・ディリの農園内の学校教師の職を得るが、オランダ人上司と衝突。
  • 1921年 職を辞し、ジャワへ移る。アジア初の共産主義政党であるインドネシア共産党に入党。すぐに頭角を表し議長に選出される。
  • 1922年 オランダ植民地当局により逮捕、国外追放処分。以後20年間祖国の土を踏むことはなかった。コミンテルン第4回大会に出席、モスクワ滞在。
  • 1923年~25年 コミンテルン工作員として中国広州へ渡り孫文と会う。病気療養を兼ねてフィリピンへ移って活動。
  • 1927年 前年のインドネシア共産党蜂起に断固反対するも説得に失敗、バンコクでインドネシア共和国党を結成。マニラで逮捕、国外追放処分。厦門へ渡る。
  • 1928年~32年 上海、香港、厦門など主に中国で活動。香港で逮捕、国外追放処分。以後福建省付近に潜伏した模様。
  • 1937年 日中戦争勃発によりシンガポールへ移る。彼をモデルにした荒唐無稽な冒険小説「インドネシアの紅はこべ」がインドネシアにて人気を博す。
  • 1942年 日本軍のシンガポール侵攻直前に脱出、祖国へ20年ぶりに極秘に帰国。
  • 1943年 住友経営の西ジャワ・バヤ鉱山に事務員として勤務。ロームシャ(労務者)としてバタバタと死んでいく同胞を間近に見る。
  • 1945年 独立宣言直前にジャカルタへ移り、スカルノら民族主義者たちに接触、自分が伝説の革命家タン・マラカであると名乗り出る。独立宣言起草の場に立ち会った西嶋重忠や独立革命軍に参加した吉住留五郎らと会う。闘争同盟を結成。
  • 1946年 シャフリル首相やスカルノ大統領らオランダとの外交交渉路線派を脅かす存在となったため共和国政府によって逮捕。以後2年半拘束される。獄中で自伝『牢獄から牢獄へ』を執筆。
  • 1949年 前年釈放されムルバ党を結成、完全独立を目指して東ジャワでゲリラ戦を展開。2月19日にインドネシア国軍に捕らえられ射殺された。

 箇条書きにしただけではわかりづらいかもしれないので解説を入れますと、彼は生涯4度、いずれも異なる土地と当局によって逮捕されています。オランダ、アメリカ、イギリス、そしてインドネシア。そしてそのたびに不死鳥の如く蘇り活動を再開しています。強運というだけでなく、インドネシアを共和国として独立させるという生涯ぶれない信念の持ち主だからこそ可能なことでした。



1932年香港で逮捕されたときのタン・マラカ

 また、彼が非常にユニークなのはその国際性だけでなく、自身の政治的態度においても常に首尾一貫していた点です。バリバリの共産主義者でありながら、決して頑迷固陋な教条主義者ではなかったことは戦前戦後のインドネシア共産党蜂起に終始反対しつづけた事実からも明らかで、また当初はコミンテルンの指示で活動するも、アジアの革命はロシアを模倣することでは達成できない、革命家に共通するのはただ一つ唯物弁証法という思考様式のみ、と断言しています。

 何度逮捕投獄されても理想を捨てず諦めない。組織を離れてただ一人であっても為すべきことを為す。自らの権力奪取のためではなくインドネシアにおいて虐げられた人民(彼はムルバと命名)のために最後まで闘う。彼の思想そのものについて私は全くの勉強不足でとても適正に評価できないのですが、彼の一貫した行動原理には尊敬の念を抱いてます。とりわけ日本人にはもっともよく知られているインドネシア人の一人、初代大統領スカルノ(言わずとしれたデヴィ夫人の旦那)の態度と対比してみると、そう思わざるを得ないのです。
 
 こんなエピソードをタン・マラカは自伝に記してます。

 彼が偽名を用いてバヤ鉱山で事務員として勤務している時に、日本軍に協力していたスカルノが遊説に来ました。インドネシアは日本と共に独立するだろうとスカルノが語るのを演説会場で聞いたタン・マラカは怒りとともに「独立とは日本からの贈り物か?」と詰問したと言います。ロームシャがどんどん死んでいく劣悪な労働環境を改善すべく働いていたタン・マラカにしてみれば、日本軍のプロパガンダを垂れ流すスカルノは、インドネシア独立の大義名分をもってしても、日本軍の傀儡或いは日和見主義者以外の何者でもなかったのでしょう。
 
 実際、本気かどうかはともかく、スカルノは現在のモナス広場での集会において「テンノウヘイカバンザーイ!」と叫んでいました。当然、日本敗戦後の独立革命の時期には日本軍協力者として青年層から突き上げをくらい、一時期タン・マラカ率いる完全独立を目指す勢力がスカルノやシャフリル首相ら外交交渉を目指す中央政府を脅かすことになったのはゆえなきことではありません。

 実のところ、彼が祖国インドネシアで政治の表舞台で活動したのは1921年から22年、そして45年から46年の短い期間で合わせて2年程度に過ぎず、にも関わらず彼は生きながらにして伝説の人であり英雄でした。

 インドネシア国外を長く流浪し、途中からはコミンテルンやインドネシアの民族運動団体や政党との連絡も途絶え、政治・大衆団体の要職にあったわけでもない彼がなぜ「伝説の英雄」になれたのか?

 理論派の彼がインドネシア国内外で多くの著作をあらわし、それが民族主義者の間で広く読まれていたことも理由のひとつですが、彼の伝説的な名声を高めたのは『インドネシアンの紅はこべ』というタン・マラカをモデルとした大衆小説のおかげでした。これは英国の女流作家バロネス・オルツィの『紅はこべ』をもじったもので、大仏次郎の『鞍馬天狗』の原型とも言われてます。オリジナルの『紅はこべ』の舞台はフランス革命下、英国貴族率いる秘密結社「紅はこべ」が革命政府によってギロチン台にかけられる王党派を救出する物語ですが、『インドネシアの紅はこべ』では当時の現代世界が舞台、帝国主義とスターリン主義の圧政に対抗して、シベリアで、パレスチナで、上海で、そして蘭領東インドで、謎の民族主義者「紅はこべ」が神出鬼没、縦横無尽な活躍をするというものです。神秘的な「紅はこべ」が国外追放されたタン・マラカであることが読者にはわかる仕掛けとなっており、民族主義運動が停滞していた出版当時、この本は読者に熱狂的に迎えられたと言います。

 更に面白いのは荒唐無稽なフィクションのはずの『インドネシアの紅はこべ』をなぞるような噂や報道がその後出てくることです。曰く、タン・マラカは既に蘭領東インドに帰国して活動している(実際にはシンガポール滞在の時期)、或いは海外で逮捕され重傷を負った等々。こうした噂話は日本軍政の時期にも出回っていましたが、タン・マラカ自身もこうした自らの虚像を意識して行動していたようです。

 こうして虚実入り混じった「伝説の英雄」は日本敗戦後のジャカルタに本名を名乗って忽然と姿を現し、瞬く間に青年層をはじめとする大衆の支持を集める指導者となったのでした。まさしく虚が実になった瞬間として、『インドネシアの紅はこべ』を読んでいたインドネシア人は熱狂したのでしょう。
 
 が、タン・マラカを恐れたスカルノやシャフリルは彼を逮捕、裁判にもかけず二年半拘留しています。その間にシャフリル拉致やインドネシア共産党によるマディウン反乱によって情勢は大きく変わっており、釈放後のタン・マラカは以前ほどの支持を広げることはできず、オランダ軍へのゲリラ戦を展開中に同胞であるはずのインドネシア国軍に東ジャワのクディリで捕まり1949年2月21日に射殺されました。享年52歳。生涯独身でした。

 ところで、タン・マラカがほんの20年ほど前まで忘れられた英雄だったのにはいくつか理由があります。第一に、スカルノ時代に彼は国家英雄に認定されたものの、当時強大な勢力を誇っていたインドネシア共産党からタン・マラカは裏切り者と見られていたこと。戦前戦後の共産党蜂起に反対した人物は誤謬を侵さない政党にとって英雄として認められなかったのでしょう。第二に、反共のスハルト政権においても、共産主義者の彼を英雄として称賛することは都合が悪かったこと。何より彼を殺害したのがオランダ軍ではなくインドネシア国軍という事実はできれば伏せておきたかったのかもしれません。第三に、タン・マラカが構想していた完全独立とは異なる形ながら、インドネシアの独立が最終的にはスカルノらによる外交交渉によって実現したことが、彼の存在を歴史のかなたに遠ざけてしまったこと。言い方を変えれば、タン・マラカは「敗者」の側に位置づけされたのでした。
 
 しかし、スハルト政権崩壊後の激動するインドネシアにおいて、タン・マラカは劇的な復権をとげました。書店では彼の著作や研究書が平積みとなり、雑誌テンポの「民族の父」人物伝シリーズの一人に選ばれ、左派系の若者の間では彼のTシャツを着るのが流行り、彼を主人公にした戯曲が上演され、ついには彼のことを「インドネシアのチェ・ゲバラ」と形容する人まで出る始末です。チェ・ゲバラよりもタン・マラカの方が先人なのに!

 これらが可能になったのは、インドネシアで共産主義を語ることが必ずしもタブーではなくなった(ただし今でもイスラーム強硬派や国軍の一部から反発は強い)状況がまずあり、強権的なスハルト体制下で定められた公的な歴史の見直しが進んでいることを意味しているのでしょう。もっと言えば、タン・マラカの生涯と著作が「もうひとつのインドネシア」、「今とは違う形のよりよきインドネシア」、「民衆が虐げられないインドネシア」の可能性を示唆しており、それが今なお若者たちを魅了しているのかもしれません。
 
 一世紀前に多くの人を魅了した共産主義社会の夢は20世紀の悪夢となったものの、チェ・ゲバラやタン・マラカのような志半ばで倒れた共産主義者の人生や著作が今なお多くの人の心を掴むのは興味深いことです。いずれ日本語でも彼の評伝が出版されることを期待したいものです。


人物伝『タン・マラカ 忘れられた共和国の父』KPG, 5万ルピア


 さて、次回以降はお堅い国家英雄たちの話からはやや離れて、お化けが出てくる小説や映画の話をしていきたいと思います。それではまた次回!

<参考文献>
タン・マラカ 日野遼一訳 『大衆行動 インドネシア共和国への道』 鹿砦社 1975年
タウフィック・アブドゥラ編 渋沢雅英・土屋健治訳『真実のインドネシア 建国の指導者たち』サイマル出版会 1979年
タン・マラカ 押川典昭訳 『牢獄から牢獄へ』鹿砦社 1巻1979年 2巻1981年
西嶋重忠 『増補 インドネシア独立革命 ハキム西嶋の証言』鹿砦社 1981年
押川典昭 「タン・マラカ 冒険小説を生きた男」(『別冊宝島EX 英雄たちのアジア』所収)JICC出版局 1993年

2017年12月27日水曜日

書評『皇軍兵士とインドネシア独立戦争 ある残留日本人の生涯』 林英一著

某団体の会報に寄稿。いつの号だったか、時期を忘れてしまった...

著者の林英一さんには2回お会いしたことがある。掛け値なしのイケメン研究者で将来が非常に楽しみな方です。あ、もちろんインドネシア研究の方ですよ。

師匠の倉沢愛子さんのように質量ともに優れた一般書をどんどん書いていただきたいものです。

我ながら野次馬はいつも身勝手...


ぶくぶくニンジャ 
『皇軍兵士とインドネシア独立戦争 ある残留日本人の生涯』 林英一著 吉川弘文館 2011年12月20日発行 2200円(税抜き)
出版社HP http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b94774.html




 本書は2007年出版の処女作『残留日本兵の真実』で注目を集めた新進気鋭の研究者・林英一氏の5冊目の著作である。脚註が多い『残留日本兵の真実』や続編の『東部ジャワの日本人部隊』とは少々異なり、かなり一般書に近いスタイルで書かれているため、読者にとって敷居の低い、読みやすい本になっている。

 本書の主人公は、前2作で焦点が当てられたラフマット・小野盛ではなく、残留日本兵の中ではおそらく最も日本のメディアに取り上げられることが多かった故フセン・藤山秀雄である。私自身は彼のライフストーリーを本書によって初めて知ったのだが、確かにメディアが好みそうな、ある意味典型的な残留日本兵の物語と彼の人生を要約することは容易だろう。ただし、著者の問題意識は残留日本兵の戦後史に留まらず、彼らの子孫が「祖国」日本への移民労働者となっている現状まで捉えている。その結果、右派が唱える「大東亜戦争によるアジア解放史観」の論拠としてのみ残留日本兵を取り上げてきた、特に90年代以降に出版された多くの類書やTV番組などとは本書は一線を画していることを強調しておきたい。

 いささか大上段に構えてしまったが、評者にとって本書の読みどころは藤山が戦中戦後に経験してきたエピソードの数々だった。例えば、独立革命戦争時にオランダ軍と戦ったのは正規軍だけでなくイスラム系民兵などもあり非常に混沌とした状況だったことはある程度知られているが、ジャカルタの闇組織が母体の民衆軍Laskarが国軍と激しい対立関係にあり、やがて民衆軍の系譜につらなるバンテンの竹槍部隊に残留日本兵数名が合流して国軍と対決した事実は本書の記述によって初めて知った。本書では触れられていないが、残留日本兵がインドネシア独立後にダルル・イスラーム軍に合流することを中央政府が恐れ、彼らを強制帰国させようとした事実もある。現在は日本人によって「美談」として語られがちな残留日本兵の存在が、当時の中央政府や国軍にとっては必ずしも好ましくない、ある意味疎ましい存在だったことはもっと広く知られるべきだろう。

 欲を言えば、1974年の田中角栄首相ジャカルタ訪問時に発生した反日・反政府暴動(マラリ事件)に藤山ら元残留日本兵たちが何を感じ、どう反応したか、藤山が住居を構えていたタンジュン・プリオクで84年に発生した当局によるムスリム住民虐殺事件を彼がどのように捉えていたか、日本で移民労働者として今も働く藤山の子孫たちが自身の自己同一性をどう考え、日本とインドネシアの社会をどう見ているのか、そうした点を著者にはもっと掘り下げてもらいたかったと思う。

 なお、前2作の小野も本書の藤山も、非常に貴重な史料である当時の日記や備忘録を若干20歳だった著者に気軽に渡している。もちろん彼らに語りたい物語があったからだろうが、著者のひたむきな姿勢が元日本兵たちの心を動かした側面もあったと思われる。インドネシア語で書かれた4冊目の著作「Mereka yang terlupakan ; Memoar Rachmat Shigeru Ono」には、現在はパピと呼ばれている小野の顔写真が多数掲載されており、著者に対する小野の信頼の深さを垣間見ることができる。同様に、2007年6月に85歳で逝去した藤山の霊も本書の出来に満足しているのではないだろうか。著者の次作が楽しみである。(敬称略)

<更新履歴>
2017.12.28  ラベル追加

2017年8月24日木曜日

+62への寄稿 私が薦めるインドネシアの本 5冊

ジャカルタで発行されている月刊フリーペーパー「+62」のインドネシア本特集に寄稿しました。以下はオリジナル原稿。未修正の箇所がありますが、備忘録としてアップしておきます。

2017年7月18日(火)
私が薦めるインドネシアの本 5冊

 +62 編集長池田さんのツイートに便乗して、自分の好きなインドネシア本を選んでみたら20冊になってしまった。さすがに20冊全部を紹介するのは多すぎるので、ウンウン唸りながら、歴史というテーマで以下5冊に絞ってみました。レアなセレクションだなあと我ながら思いつつ、本の内容については自信があるので、機会があれば+62読者の方々にも是非読んでいただきたいと思います。

 まずは私のインドネシア観に決定的な影響を与えてくれた故・村井吉敬さんの著作二冊から。処女作でインドネシア初心者には特に強く薦めたい『スンダ生活誌  変動のインドネシア社会』 (現在は岩波現代文庫から『インドネシア・スンダ世界に暮らす』として復刊)は先月号で西宮奈央さんが紹介されていたので、ややマニアックながら個人的に思い入れのある『赤道下の朝鮮人叛乱』及び『シネアスト許泳の「昭和」』の二冊を合わせて挙げます。




 二冊とも村井さんの人生の伴走者だった内海愛子さんとの共著。アジア太平洋戦争中は「日本人」だった朝鮮人たちが日本軍占領期とその後の独立革命戦争下のインドネシアでどのように生き、刑場の露と消え、あるいは戦場で死んでいったのか。日本人インドネシア人そして朝鮮人の多くからも忘れられた抗日反乱、理不尽な「戦犯」裁判、そして「親日派」映画人の一生を、数少ない資料や証言を元に立体的に浮き彫りにしてくれる良書です。



 私がインドネシアに片足を突っ込むようになった頃、アジア映画の文献を乱読していた四半世紀前に知って以来、三つの名前を持つ映画監督許泳(ホウ・ヨン)は何故かずっと気になる人物でした。日本朝鮮インドネシア各国で活躍したとは言っても、彼が残した作品は映画史上の傑作とはならず、むしろ凡作の部類です。しかも日本軍政下のジャワでは偽ドキュメンタリー映画を監督、堂々たる「親日派」朝鮮人、今日的価値観からすれば紛れもなく売国奴と非難される怪しい人物と言えるでしょう。しかし、彼にやや同情的な共著者の文章を読み進めるうちに浮かんでくるのは、何が何でも俺は映画を撮る!という日夏英太郎としての図太さであり、敗戦時にそれまでの態度をコロッと翻すホウ・ヨンとしての後ろめたさであり、インドネシア独立後には俺の場所はここしかない!と異国に残留するドクトル・フユンとしての楽天性(日本の妻子を忘れてますが)といった彼のしたたかさと映画にかける一途さです。多分私が彼の人生に心惹かれるのは、時代の制約があっても、平凡な才能しかなくても、人は何事かを成しえるし、何かを後世に残しえることを教えてくれるからでしょう。彼の遺作となった『天と地の間で』は、技術的に稚拙なところがあるものの、混血の主人公の人物造形には彼自身の人生が投影されているように見えて、感慨深く感じられます。

 この二冊は実質的には二部作なので、是非合わせて読まれることをお奨めします。惜しむらくは共に絶版で、その後発見された資料や映画の内容を追記しての完全版での復刻が待ち望まれるところです。更に関心のある方は遺児である日夏もえ子さんの『越境の映画監督 日夏英太郎』も読んでみて下さい。

 さて、三冊目。日本人のインドネシア専門家の中では専門書から一般書まで幅広く書かれている倉沢愛子さんのインドネシア語著作『Masyarakat dan Perang Asia Timur Raya』を推します。これも上記2冊同様、アジア太平洋戦争関連書ですが、元になっているのは2002年に講談社現代新書として出版された『「大東亜」戦争を知っていますか』です。元々は倉沢さんがご自身の高校生の娘を読者に想定して書かれたこともあって、文章が平易で非常にわかりやすいのが特徴です。そして昨年出版されたばかりのインドネシア語版には、この間に朝日新聞社の倉庫で発見された未発表の写真が多数追加収録されており、貴重な資料でもあります。



 内容は多岐にわたり、開戦前の情況に始まり、対日協力者の系譜、軍に振り回された在留邦人たち、経済政策、ロームシャや慰安婦などの戦時動員、宗教勢力への接近と監視、日本へ派遣された南方特別留学生、初等教育の充実、プロパガンダ映画の製作上映等々、マクロとミクロの視点両方からあの時代を振り返ることができる充実した内容です。インドネシアの歴史教科書がやや無味乾燥で、インドネシア各地の出来事のみに限定されているのと比較すると、短い記述ながらもあの時代を生きた人たちの人生がうかがえ、インドネシア以外の東南アジア各国の当時の状況についてもわかる本書は、インドネシア人の学生にも是非薦めたい書籍と言えます。インドネシア語がある程度できる方は、日本語版と照らし合わせながら読めば語学の学習書としても使えるでしょう。

 四冊目は少し視点を変えて『インドネシア イスラーム主義のゆくえ』。著者の見市建さんはご存知じゃかるた新聞にも寄稿されている、インドネシアのイスラーム専門家。本書の出版はユドヨノ政権誕生直前の2004年で、当時は2002年のバリ島爆弾テロ事件の記憶も生々しく、「寛容」で「穏健」とされたインドネシアのイスラーム勢力が急速に過激化しているとの印象論が広く流布されました。こうした一面的な見方を著者は「少数派の急進派のみに注目しても政治や社会の動態はわからない」として退け、より広い文脈でインドネシアにおけるイスラーム運動の歴史とイスラーム復興の実態を分析しています。暴力の系譜と思想史と運動史、そして町にあふれるポップなイスラーム的「商品」を関連づけて論じた本は、当時まだ多くはなく、そうした意味でも画期的な本でした。この間、爆弾事件の主犯とされた過激派組織ジャマーア・イスラミヤは弱体化し、貧困層の希望の星でクリーンと見られていた正義党は汚職に手を染める普通の政党になってしまい、何よりISISが中東で台頭するなど状況は激変したので、本書の記述にも多くの手直しが必要かもしれませんが、分析の枠組みそのものは依然有効だと思います。「イスラームないしはムスリムを動態的に把握する必要がある」との著者の主張に深く同意します。

 インドネシアで爆弾事件や自爆テロ未遂が報じられるたびにテロの原因を知りたいと感じる日本人は大勢いると思いますが、そうした方にはまず見市さんの一連の著作と論文をじっくり読まれることをお薦めいたします。テロ事件の直接的な原因はわからないにせよ、事件の背景を紐とくには歴史を知るのが一番なのです。急がば回れ。

 最後はガラッと趣向を変えて、1931年から1965年まで断続的に雑誌に連載された漫画の復刻版『Komik Strip Pertama Indonesia ; Put On Edisi Pantjawarna』を挙げます。

 

現在は日本スタイルの漫画がインドネシア市場を席巻してますが、戦前から戦後しばらくはアメリカンスタイルの漫画が日本同様主流でした。四コマ漫画ならぬ6コマ漫画で、柔らかなユーモアがコマとコマの間から漂ってきそうな作風です。作者はインドラマユ生まれの華人Kho Wan Gie。Put On は主人公の名前ですが、漢字にすると「不安」でしょうか。青年というよりは中年で、小太りの中国系の彼が巻き起こす珍騒動が多くのパターンですが、中には時の政権のプロパガンダ的な内容もあったりします。この漫画が面白いのは、台詞にオランダ語や福建語やスラングが多数入り混じり、当時のジャカルタ都市部のファションや風俗がよく描かれている点でしょう。70年代に一世を風靡したシラット漫画では登場人物たちが折り目正しい正調インドネシア語を話していて違和感ありありだったのですが、Put On では登場人物たちが生きている言葉を使っているのが非常に印象的で、ちょっとした言葉の勉強にもなります。



 以上、読者諸兄の皆様の読書の一助になれば幸いです。


<更新履歴>

2017.12.28 ラベル追加、タイトル変更
2018.1.7  画像追加