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2017年12月28日木曜日

インドネシア映画コラム7本 日本とのつながり、女性映画人など

先日アップした「インドネシア映画の過去・現在、そして可能性」の補足コラム。
謎の日本人女優タケウチ・ケイコについてはレコードを出していたことも判明。また1966年の政変後、67年か68年には日本映画の輸入がパッケージでおこなわれていたとの新聞報道も見かけた。日本とインドネシアの映画界芸能界の繋がりは薄い関係ながら戦後も続いたようで、対日観の変遷の点からも調査研究が必要と思われる。


コラム1 三つの名を持つ映画監督 ドクトル・フユン(1908-1952)


 ドクトル・フユンこと日夏英太郎こと許泳(ホ・ヨン)の複雑な人生は映画やTVドラマの原作になりうると私は思っているが、実現にはかなり困難が伴うことも感じている。朝鮮出身の彼は日本、朝鮮、インドネシアで映画製作をおこなったものの、傑出した作品を後世に残したわけではなく、むしろ「売国奴」や「戦犯」として告発されてもおかしくない作品も撮っているからだ。当時の内鮮一体政策に沿った劇映画「君と僕」しかり、連合軍捕虜を人道的に処遇していることを訴える(やらせ)ドキュメンタリー「豪州への呼び声」しかり。


 しかし彼の足跡を追ってみると、彼を突き動かしていたのは当時の限られた条件下で何とかして映画を撮りたい、ただその一心だけだったのではないかとも思える。現存している「天と地の間に」は国産映画初のキスシーンを含んだゆえに検閲されたが、独立戦争下でインドネシア側につくべきかオランダ側につくべきか迷う主人公は監督のフユン自身を投影しているようにも見えて興味深い。朝鮮出身のある意味平凡な映画人であった彼がどうしてドクトル・フユンとしてジャカルタで亡くなったのか、その足跡をたどることは国ごとに分断されがちな映画史を乗り越える視点を今日でもなお提供してくれる。もっと知られていい映画人であろう。

 なお、興味のある方は日夏英太郎の遺児、日夏もえ子さんによる以下のホームページ及び書籍を参照されたい。
http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/

コラム2 インドネシア映画の父 ウスマル・イスマイル(1921‐1971) 
 
 言わずと知れた「インドネシア映画の父」。独立革命戦争後にプリブミ系製作会社プルフィニを起ち上げ、新興国家インドネシアのアイデンティティを確立するために様々なジャンルの映画を監督した。代表作に「血と祈り」「夜を過ぎて」「賓客」「三人姉妹」「女子寮」「自由の戦士たち」「芸術家の休暇」「ビッグ・ビレッジ」など。私が見たのは監督作33本のうち5本にすぎないが、どの作品でも印象的だったのはリアリズムとロマンスの見事な融合であり、スマートな音楽の使い方であり、緩急自在な語り口だった。

 特に50年代を通じて最もヒットした映画といわれる「三人姉妹」は魅力的な女優たちと甘美な歌が今見ても実に素晴らしい。その一方、ナショナリズム高揚期の雰囲気が濃厚に漂っているのもウスマル作品の特徴といえる。そうした視点でインドや中国、他の東南アジア諸国の同時期の映画と見比べてみると、また新たな発見があるのではないかと思う。

コラム3 多様性を追求する女性監督 ニア・ディナタ(1970-)
 
 スハルト退陣後の改革時代を代表する女性映画人の一人。ジェンダーやマイノリティやエスノシティの問題及び視点を国産映画に本格的に取り入れた功績は大きい。長編デビュー作「娼館」は中国系インドネシア人を主人公とし、しかも肯定的に描写したおそらく初の国産映画。2作目「アリサン!」では道化ではないゲイを登場人物として設定し、3作目「分かち合う愛」では多妻婚を様々なケースから描いた。女性問題のドキュメンタリー映画製作やキッズ映画祭運営にも関わり、劇映画プロデュース最新作はニューハーフのヒーロー(ヒロイン?)が活躍するアクションコメディ「マダムX」。

 ニア作品からうかがえるのは常に多様な視点を観客に提示しようとする姿勢だろうか。女性問題を訴える場合においても、差別の現状を直接告発するよりは一歩引いた視点を採用し、さらに別の事例を並列させることが多い。ジョコ・アンワル監督の「ジョニの約束」では自己パロディのような役を楽しそうに演じているのが印象的であり、今後も「女性映画」のジャンルにとどまらない活躍が期待される。

コラム4 初めにイメージありきの芸術派女性監督 アン・ナハナス(1960-)
 
 スハルト時代から短編映画で抜きん出た才能を示しており、長編デビュー作「囁く砂」をNHK製作、クリスティン・ハキムとディアン・サストロワルドヨ主演で2001年に発表。ブロモ山周辺の荒涼たる風景を主な舞台とする母娘の物語をシュールなタッチで描いた。イラン製児童映画に影響をうけたとおぼしき2作目「旗」は、小学生たちが下町でインドネシア国旗を探しまわる物語。3作目「写真」は地方都市を舞台に、滅びゆく写真屋の中国系主人とシングルマザーのカラオケ屋ホステスとの交流を描く。

 いずれも地味なストーリーの芸術映画だが、画(イメージ)への執着は第1作の冒頭シーンから明確にあった。ストーリーよりもイメージ先行の映画監督と言える。「写真」においても終盤のショッキングな場面を初めに構想していたことは間違いないだろう。決して大衆受けする内容ではないが、早撮りで粗製乱造気味の国産映画界においては貴重な存在。近年はプロデューサー業に専念している。

コラム5 芸術と娯楽の境目を狙う敏腕女性プロデューサー ミラ・レスマナ(1964-)
 
 改革時代に入って次々に話題作ヒット作を連発するまさに「台風の目」と言っていいプロデューサー。自身が立ち上げたマイルズ・プロダクションを拠点とする。児童ミュージカル「シェリナの冒険」、日本でも劇場公開された青春ロマンス「ビューティフル・デイズ」、60年代活動家の伝記「ギー」、ベストセラーが原作で2008年に記録破りの大ヒットとなった教育的啓蒙映画「虹の戦士たち」などが代表作。一般観客の支持だけでなく批評家からの評価も高く、国際映画祭での上映も多い。一般観客にわかりやすい語り口で、且つ一定のクォリティを維持した作品を次々に送り出している。
 
 彼女自身はインタビューで常に興行成績を気にしているが、金儲けのための映画は作らないと明言しており、市場で多数を占める低予算のホラーものや安直な若者向けラブストーリーには今後も手を出さないと思われる。次回作はプラムディヤ原作の「人間の大地」。今まで以上に国内外から注目を集めるだけに製作には難航が予想され、プロデューサーとしての真価が問われるだろう。

コラム6 幻の日=イネ合作映画「栄光の影に」
 
 日本の、というより世界の怪獣王と言えば誰でも思い浮かべるゴジラ。しかし、ゴジラの誕生にインドネシアが関係していたことを知る人はインドネシア研究者においては少ないのでは?

 実はインドネシアと日本の合作映画「栄光の影に」製作が中止されたために東宝の映画プロデューサー田中友幸によって急遽企画されたのがゴジラであった。「栄光の影に」は独立革命戦争に参加した日本兵を主人公とした物語だったらしい。50年に公開されヒットした「暁の脱走」と同キャスト(池辺良、山口淑子)同スタッフ(黒沢明と盟友の谷口千吉監督)、インドネシア側はウスマル・イスマイルが協力する予定だったが、当時は日イネ間の賠償問題が解決していなかったためインドネシア外務省がビザを発給せず製作中止となった。もしこの映画製作が順調に進んでいた場合、ゴジラは誕生しただろうか。核の脅威が現実のものであり戦争の影を引きずっていた当時の世相を考えると、怪獣映画の傑作ゴジラは遅かれ早かれ誕生しただろう。それだけに初の日イネ合作映画製作が頓挫したことは残念でならない。

 なお、51年には市川昆監督の「ブンガワンソロ」が公開されている。こちらはインドネシア人を日本人俳優が演じているが、ちゃんと俳優たちにインドネシア語をしゃべらせている点、日本人視点のオリエンタリズム映画として興味深い作品である。また「モスラ」で小美人が歌う歌がインドネシア語であることは有名。ただし最近のインドネシア人にはあまり聞き取れない模様だ。

コラム7 インドネシア映画は混血映画?
 
 本格的な国産劇映画の誕生をオランダ時代とするか、あるいは独立後のプルフィニ設立後とするか、評者によって意見は分かれるだろうが、確かなことはインドネシア映画が常に外来者と混血者によって発展してきた事実であろう。ヨーロッパ系は当初は技術者と資本を、のちには混血俳優を提供し、中国系は製作と配給において、インド系はその映画様式でそれぞれ影響を与えてきた。今日においても少なくない著名俳優や芸能人が混血者である。ナショナリズムを鼓舞する映画で実は主人公が混血だったり、実際の出自や宗教と異なった役柄を演じているのを見ると奇妙な感じがするのだが、インドネシア人観客はどう感じているのだろうか。

 日本映画の影響は限られているものの、チャンバラとりわけ60年代から70年代にかけて第三世界を席巻した座頭市の影響は当時のアクションものに色濃く見られる。また日本軍占領時代には日本映画が多く上映されたものの字幕無しが通常だったため、画面の横でストーリーを説明する人がいたとされる。それが弁士のような語り部だったのか、あるいは単なる説明者だったのか、今後の研究が待たれる。
 
 なお、63年のジャヤクスマ監督作品「台風と嵐の時代」及び65年のウスマル・イスマイル監督作品「芸術家の休暇」出演者名簿にタケウチ・ケイコとの記録がある。日本人と見られるが、日本人役ではない。一体どういう経緯で当時の国産映画に出演することになったのか、謎である。どなたか事情をご存知の方は是非教えていただきたい。

<更新履歴>
2017.12.28  ラベル追加

2017年8月24日木曜日

+62への寄稿 私が薦めるインドネシアの本 5冊

ジャカルタで発行されている月刊フリーペーパー「+62」のインドネシア本特集に寄稿しました。以下はオリジナル原稿。未修正の箇所がありますが、備忘録としてアップしておきます。

2017年7月18日(火)
私が薦めるインドネシアの本 5冊

 +62 編集長池田さんのツイートに便乗して、自分の好きなインドネシア本を選んでみたら20冊になってしまった。さすがに20冊全部を紹介するのは多すぎるので、ウンウン唸りながら、歴史というテーマで以下5冊に絞ってみました。レアなセレクションだなあと我ながら思いつつ、本の内容については自信があるので、機会があれば+62読者の方々にも是非読んでいただきたいと思います。

 まずは私のインドネシア観に決定的な影響を与えてくれた故・村井吉敬さんの著作二冊から。処女作でインドネシア初心者には特に強く薦めたい『スンダ生活誌  変動のインドネシア社会』 (現在は岩波現代文庫から『インドネシア・スンダ世界に暮らす』として復刊)は先月号で西宮奈央さんが紹介されていたので、ややマニアックながら個人的に思い入れのある『赤道下の朝鮮人叛乱』及び『シネアスト許泳の「昭和」』の二冊を合わせて挙げます。




 二冊とも村井さんの人生の伴走者だった内海愛子さんとの共著。アジア太平洋戦争中は「日本人」だった朝鮮人たちが日本軍占領期とその後の独立革命戦争下のインドネシアでどのように生き、刑場の露と消え、あるいは戦場で死んでいったのか。日本人インドネシア人そして朝鮮人の多くからも忘れられた抗日反乱、理不尽な「戦犯」裁判、そして「親日派」映画人の一生を、数少ない資料や証言を元に立体的に浮き彫りにしてくれる良書です。



 私がインドネシアに片足を突っ込むようになった頃、アジア映画の文献を乱読していた四半世紀前に知って以来、三つの名前を持つ映画監督許泳(ホウ・ヨン)は何故かずっと気になる人物でした。日本朝鮮インドネシア各国で活躍したとは言っても、彼が残した作品は映画史上の傑作とはならず、むしろ凡作の部類です。しかも日本軍政下のジャワでは偽ドキュメンタリー映画を監督、堂々たる「親日派」朝鮮人、今日的価値観からすれば紛れもなく売国奴と非難される怪しい人物と言えるでしょう。しかし、彼にやや同情的な共著者の文章を読み進めるうちに浮かんでくるのは、何が何でも俺は映画を撮る!という日夏英太郎としての図太さであり、敗戦時にそれまでの態度をコロッと翻すホウ・ヨンとしての後ろめたさであり、インドネシア独立後には俺の場所はここしかない!と異国に残留するドクトル・フユンとしての楽天性(日本の妻子を忘れてますが)といった彼のしたたかさと映画にかける一途さです。多分私が彼の人生に心惹かれるのは、時代の制約があっても、平凡な才能しかなくても、人は何事かを成しえるし、何かを後世に残しえることを教えてくれるからでしょう。彼の遺作となった『天と地の間で』は、技術的に稚拙なところがあるものの、混血の主人公の人物造形には彼自身の人生が投影されているように見えて、感慨深く感じられます。

 この二冊は実質的には二部作なので、是非合わせて読まれることをお奨めします。惜しむらくは共に絶版で、その後発見された資料や映画の内容を追記しての完全版での復刻が待ち望まれるところです。更に関心のある方は遺児である日夏もえ子さんの『越境の映画監督 日夏英太郎』も読んでみて下さい。

 さて、三冊目。日本人のインドネシア専門家の中では専門書から一般書まで幅広く書かれている倉沢愛子さんのインドネシア語著作『Masyarakat dan Perang Asia Timur Raya』を推します。これも上記2冊同様、アジア太平洋戦争関連書ですが、元になっているのは2002年に講談社現代新書として出版された『「大東亜」戦争を知っていますか』です。元々は倉沢さんがご自身の高校生の娘を読者に想定して書かれたこともあって、文章が平易で非常にわかりやすいのが特徴です。そして昨年出版されたばかりのインドネシア語版には、この間に朝日新聞社の倉庫で発見された未発表の写真が多数追加収録されており、貴重な資料でもあります。



 内容は多岐にわたり、開戦前の情況に始まり、対日協力者の系譜、軍に振り回された在留邦人たち、経済政策、ロームシャや慰安婦などの戦時動員、宗教勢力への接近と監視、日本へ派遣された南方特別留学生、初等教育の充実、プロパガンダ映画の製作上映等々、マクロとミクロの視点両方からあの時代を振り返ることができる充実した内容です。インドネシアの歴史教科書がやや無味乾燥で、インドネシア各地の出来事のみに限定されているのと比較すると、短い記述ながらもあの時代を生きた人たちの人生がうかがえ、インドネシア以外の東南アジア各国の当時の状況についてもわかる本書は、インドネシア人の学生にも是非薦めたい書籍と言えます。インドネシア語がある程度できる方は、日本語版と照らし合わせながら読めば語学の学習書としても使えるでしょう。

 四冊目は少し視点を変えて『インドネシア イスラーム主義のゆくえ』。著者の見市建さんはご存知じゃかるた新聞にも寄稿されている、インドネシアのイスラーム専門家。本書の出版はユドヨノ政権誕生直前の2004年で、当時は2002年のバリ島爆弾テロ事件の記憶も生々しく、「寛容」で「穏健」とされたインドネシアのイスラーム勢力が急速に過激化しているとの印象論が広く流布されました。こうした一面的な見方を著者は「少数派の急進派のみに注目しても政治や社会の動態はわからない」として退け、より広い文脈でインドネシアにおけるイスラーム運動の歴史とイスラーム復興の実態を分析しています。暴力の系譜と思想史と運動史、そして町にあふれるポップなイスラーム的「商品」を関連づけて論じた本は、当時まだ多くはなく、そうした意味でも画期的な本でした。この間、爆弾事件の主犯とされた過激派組織ジャマーア・イスラミヤは弱体化し、貧困層の希望の星でクリーンと見られていた正義党は汚職に手を染める普通の政党になってしまい、何よりISISが中東で台頭するなど状況は激変したので、本書の記述にも多くの手直しが必要かもしれませんが、分析の枠組みそのものは依然有効だと思います。「イスラームないしはムスリムを動態的に把握する必要がある」との著者の主張に深く同意します。

 インドネシアで爆弾事件や自爆テロ未遂が報じられるたびにテロの原因を知りたいと感じる日本人は大勢いると思いますが、そうした方にはまず見市さんの一連の著作と論文をじっくり読まれることをお薦めいたします。テロ事件の直接的な原因はわからないにせよ、事件の背景を紐とくには歴史を知るのが一番なのです。急がば回れ。

 最後はガラッと趣向を変えて、1931年から1965年まで断続的に雑誌に連載された漫画の復刻版『Komik Strip Pertama Indonesia ; Put On Edisi Pantjawarna』を挙げます。

 

現在は日本スタイルの漫画がインドネシア市場を席巻してますが、戦前から戦後しばらくはアメリカンスタイルの漫画が日本同様主流でした。四コマ漫画ならぬ6コマ漫画で、柔らかなユーモアがコマとコマの間から漂ってきそうな作風です。作者はインドラマユ生まれの華人Kho Wan Gie。Put On は主人公の名前ですが、漢字にすると「不安」でしょうか。青年というよりは中年で、小太りの中国系の彼が巻き起こす珍騒動が多くのパターンですが、中には時の政権のプロパガンダ的な内容もあったりします。この漫画が面白いのは、台詞にオランダ語や福建語やスラングが多数入り混じり、当時のジャカルタ都市部のファションや風俗がよく描かれている点でしょう。70年代に一世を風靡したシラット漫画では登場人物たちが折り目正しい正調インドネシア語を話していて違和感ありありだったのですが、Put On では登場人物たちが生きている言葉を使っているのが非常に印象的で、ちょっとした言葉の勉強にもなります。



 以上、読者諸兄の皆様の読書の一助になれば幸いです。


<更新履歴>

2017.12.28 ラベル追加、タイトル変更
2018.1.7  画像追加