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2017年12月9日土曜日

映画評『カルティニ』(2017年)

チカラン日本人会メールマガジン 「生々流転」vol39に掲載。


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄

第3回 映画『カルティニ』が描いたものと描かなかったもの

 前回に続き今回もインドネシア女性解放運動の先駆者にして国家英雄ラデン・アジェン・カルティニについて、今年4月に公開された映画 Kartini (ハヌン・ブラマンティヨ監督)を手掛かりに、カルティニの実像とフィクションの関係を語ってみたいと思います。まずは映画の紹介から。




2017年版の映画 Kartini ポスター


 カルティニを主人公とした映画は、1982年にR.A.Kartini(シュマンジャヤ監督)が、また昨年2016年にはSurat Cinta Untuk Kartini(アズハル・キノイ・ルビス監督)が、それぞれ製作公開されており、今作で三度目の映画化となります。82年の作品は日本でも映画祭で上映され、その後NHKBSでも放送されました。2017年版はインドネシアではトップ女優の一人と目されるディアン・サストロワルドヨが主演し、製作に時間も予算もかけたことが推察される堂々たる作品でした。

 日本でも単館劇場公開された『ビューティフル・デイズ』(2001年インドネシア公開、原題 Ada Apa Dengan Cinta? )の主演を務めたディアン・サストロは正統派の美人女優、出演作品こそ多くはないものの確かな演技力と美貌、そして人気を考えれば、インドネシアの国家英雄を演じるには正に適役と言えるでしょう。また、劇中でカルティニの実母を演じるのは日本をはじめ海外でもよく知られた国際派にして国民的女優のクリスティン・ハキム、映画内ではカルティニに辛くあたる義母は82年版を監督したシュマンジャヤ監督の娘ジュナル・マエサ・アユ、慈愛あふれる父親はベテラン俳優のデディ・ストモ、可愛い妹二人にはアユシタ・ ヌグラハとアチャ・セプトリアサ、僅かな出番ながらカルティニに決定的な影響を与えた兄にはイケメン男優レザ・ラハディアン。いずれも実力派の俳優がしっかり脇を固めており、観客は安心して物語に身を委ねることができます。



上が実在のカルティニ姉妹。左よりカルティニ、カルディナー、ルクミニ。
下が2017年版で演じた女優たち。
ディアン・サストロワルドヨ、アユシタ・ヌグラハ、 アチャ・セプトリアサ。


 ここで本作の具体的な内容に踏み込む前に、一般論として偉人伝をどのように映像化するか、伝記映画の在り方について考えてみたいと思います。


 過去120年の映画史において、偉人伝はそれこそ無数に撮られてきました。今思いつくだけでも、スティーブ・ジョブズ、サッチャー、ホーキング、チェ・ゲバラ、チャップリン、ガンディー等々、おそらく作品リストを作るとすれば長大になります。近年は技術の進歩もあり、本人そっくりの俳優が仕草や喋り方まで真似て観客を唸らせることもしばしばです。しかしどれだけ実在の人物に似せることに成功しても、彼/彼女の人生に何が起きたか、そして彼/彼女は何をしたか、既に知っている多くの観客を満足させることは容易ではありません。よく知られた挿話をつなぎ合わせただけではただのダイジェスト版になってしまいますし、逆になんでもかんでも描こうとすれば大味である、冗長すぎると酷評されます。特に近現代の人物の場合詳細な伝記が出ていることが多いので、あの挿話が語られるのに別の面白い挿話は何故省略するのだ!と観客から突っ込まれることは避けられません。何より存命中の人物でない限り、私たちは結末を既に知っているわけで、製作者としては最大公約数的な作品を目指すことが多いように思えます。一方、才能ある野心的な監督の場合、時系列をバラバラに組み替えたり、類似の出来事を反復したり、あるいは回想場面を効果的に挿入することで、一般的に知られている偉人の別の一面を浮き彫りにしようとするようです。


 さて、このようなある種の制約がある伝記ものとして、本作はどのようなアプローチを取っているかと言えば、極めてオーソドックスな方法、カルティニの子供時代から結婚するまでを時系列で語っていきます。回想シーンは僅か、語り手の視点が入れ替わることもなく、彼女の人生をよく知らない観客にとっては分かりやすい語り口と言えるでしょう。ヒットメーカーであるハヌン監督らしい、奇をてらわない堅実な演出です。と同時に、私のようなうるさ型の観客も満足させるいくつかの美点を本作は備えてます。


 まず第一に時代考証です。ジャワ文化が高度に洗練された礼儀作法と言語体系を持っていることは有名ですが、本作ではそれらを忠実に再現しています。自分より目上や位の高い人物には拝むような姿勢を取り続け、決して腰を上げてはならない様子などを本作で初めて見た人は少なくないでしょう。また台詞の多くはジャワ語ですが、オランダ人との会話や手紙は勿論オランダ語、早い話インドネシア語字幕がこれほど出てくるインドネシア映画はそうそうありません。私はジャワ文化にもオランダ語にも精通してないので、その正確さをはかることは出来ないものの、映画製作者たちが衣装や作法や言語を忠実に再現しようとしていることは疑いようがなく、観客をカルティニが生きていた時代へタイムスリップさせることに成功しています。


 第二に婚前閉居(ピンギタン)のため行動が制約されていた事実を逆手に取り、いくつかの幻想場面や映画的サスペンスを効果的に挿入、実際には非常に内省的だったと思われるカルティニの一生を十分躍動的なものとして描写して平板さから逃れています。読書に没頭しているうちに物語の登場人物たちが目前に現れ対話してみたり、兄たちの意地悪で外に出られない姉妹が裏をかいて伝言を届ける場面には思わずニヤリとしてしまいます。中でも見事な映画的な処理として成功しているのは、カルティニがオランダ人のペンパルであったステラと言葉を交わす場面ではないでしょうか。姉妹と日本のキモノを浴衣のように着て写真を撮るべくフラッシュが焚かれた次の瞬間、風車のある典型的なオランダの田園風景の中に翔んでいるカルティニ! オランダ留学の夢を持ちながら結局は諦めるしかなく、親友ステラと実際に会う機会もなかった史実を思うと、短いながらももっとも印象的な名場面となっています。


 第三に母と娘の物語として一本筋を通した構成にしたこと。カルティニの実母は身分が低くあくまで妾だったため、幼少期以降は実母を母と呼ぶこと、一緒に寝ることが許されず、父の正妻を母と呼ぶしきりに従う場面を冒頭に置き、終盤は部屋に閉じ込められた娘を実母が救い出し二人だけの対話を通して親子の絆を回復、二人の母同様に一夫多妻を受け入れた後の結婚式では敢えてしきたりに逆らうことで実母への深い感謝を示して本作は幕を閉じます。今は廃れたものの、かつては一大ジャンルだったお涙頂戴の母ものの片鱗を今作は見せると同時に、時代を超えて観客の情感に訴える構成は結果として強い普遍性を獲得していると私は思います。封建主義の擁護ではないかとの批判があることは承知の上で、しかし物語としてはスッキリしており、史実とのバランスもある程度取れていることは評価すべきでしょう。



日本のキモノを着ているカルティニ姉妹。1903年撮影。
当時欧米で流行りのジャポニズム(日本趣味)の波が中部ジャワの
ジュパラにも届いていたのだろうか。


 以上、本作の見どころを数点述べてみましたが、では逆に本作が描かなかったこと、欠けているものは何でしょうか?

 それはナショナリズムであり、或いは植民地支配の実態を示す描写に他なりません。これは昨年の『カルティニへの恋文』と比較すると明確です。後者ではカルティニとオランダ人との短くも重要な対話が浜辺で2回あります。1度目は「原住民は立ち入り禁止」の看板がある浜辺でオランダ人の少女たちに向けて看板の内容を抗議する場面、2度目は彼女のオランダ留学を後押しするはずだったアベンダノン氏から留学の夢を諦めるよう告げられる場面。共に相手はオランダ語を話すのですが、オランダ語が流暢だったはずのカルティニに劇中では敢えてインドネシア語で反論させています。これは嘘っぽいというだけでなく、ナショナリズムの論理をリアリズムよりも優先させた結果と私は解釈しています。率直に言って、『カルティニへの恋文』は強引にフィクションの人物を造形したためにご都合主義が目立ち、映画全体の出来としてはあまり良くないのですが、この二つの場面をもって、ひょっとしたらインドネシア人の民族主義者はこの作品の方を『カルティニ』よりも高く評価するかもしれません。その位、分かりやすいナショナリズムは希薄なのが本作の特徴です。


 何よりもここには「良きオランダ人」しか登場しません。ジャワ戦争がとうの昔に終結し、オランダ植民地支配が既にどっぷり根を下ろしていたのが当時の中部ジャワとは言え、カルティニも家族もその周囲の人間も間接統治とは言え、オランダによる支配に何の疑問も持っていないように描かれ、その矛盾が暴かれることもありません。あまりにもオランダ人たちを物わかりの良い、地元の文化を尊重する、親切な紳士淑女然と描いている点はやや不自然と指摘しなくてはなりません。何もオランダ人を悪人と描写していないから、本作はダメだという立場を私は取りませんが、ただ死後まとめられたカルティニの書簡集を倫理政策推進の上でも利用したオランダ政府、何よりカルティニに勉学の夢を吹き込みながら最終的には梯子を外した疑惑が濃厚なアベンダノン夫妻、彼らへの言及や描写が全くなされていないことには納得のいかないものを感じています。ここで例えば同時代人のチュッ・ニャ・ディンがオランダにとってどのような存在であったかを考えてみれば、カルティニがオランダにとって都合の良い存在であったことは否定できないでしょう。


 ただカルティニの名誉のために補足しておけば、彼女はオランダ語を通じて近代的精神を身につけジャワ社会の因習に厳しい目を向けましたが、決して盲目的な欧化主義者ではなく、むしろオランダ人の偽善ぶりをあけすけに批判もしてます。オランダ語を修得し自己を客体化することが出来たからこそ、自らが属する社会の美点も欠点もよく理解出来たわけです。本作に出てくる挿話の一つ、兄からは田舎くさいと馬鹿にされていた木彫りの価値を認め、職人たちに博覧会に出展させる作品を作らせたことは正しくカルティニによる「伝統の再発見」でした。


 本作が描いたこと描かなかったことをこうして列挙してみて改めて気づくのは、カルティニという一人の聡明な女性が相反する考えや価値観を同時に持つためにその狭間で悩み苦闘する姿です。それは近代ゆえ、植民地支配下のジャワに生まれたが故の苦悩ではあります。しかし今現在も女性が直面する結婚や進学や男女不平等などの諸問題に引きつけてカルティニの一生を振りかえってみれば、彼女は我々観客の身近な隣人ではないでしょうか。


 彼女の人生は僅か25年でしたが、その書簡は今なお我々にインスピレーションを与え続けています。彼女の一生をどのように解釈するか、本作はあくまでその一つであり、より多様な解釈が本作の観客の中から生まれてくることを私は期待したいと思います。


 さて次回ですが、対照的な二人の女性国家英雄に続き、「共和国の父」と呼ばれる神出鬼没の共産主義者タン・マラカを取り上げる予定です。では、また来月!


<参考文献>

Seri Buku Saku TEMPO: Kartini
http://www.penerbitkpg.id/book/seri-buku-saku-tempo-kartini/

<YOU TUBE>
カルティニ(2017年)予告編
R.A.カルティニ(1982年)
カルティニへの恋文(2016年)

<映画データ>
原題 Kartini
劇場公開日;20174月19
製作国;インドネシア
言語;ジャワ語、オランダ語、インドネシア語
スタッフ;製作 ロバート・ロニー
     監督・脚本 ハヌン・ブラマンティヨ
     共同脚本 バグス・ブラマンティ
キャスト  ; ディアン・サストロワルドヨ、アチャ・セプトリアサ、アユシンタ・ヌグラハ、デディ・ストモ、ジェナル・マエサ・アユ、クリスティン・ハキム、レザ・ラハディアン


<更新履歴>
2017.12.12  見出し削除、掲載メルマガ明記、参考文献追記
2018.1.6  ラベル変更

2017年11月23日木曜日

書評『カルティ二の風景』土屋健治著

11月27日配信のチカラン日本人会メールマガジンに掲載されました。先日アップした内容と基本変わらず。


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
第2回 土屋健治著『カルティ二の風景』と画家・森錦泉



 前回は私にとって強烈な「異文化」を感じさせ、その後アチェそしてインドネシアへといざなうきっかけとなった映画「チュッ・ニャ・ディン」について語りました。第2回目の今回は、チュッ・ニャ・ディンと同時代人であり彼女同様インドネシアの国家英雄でもある、インドネシアにおける女性解放運動の先駆者ラデン・アジェン・カルティニについて、一冊の本と一人の日本人画家を通して語ってみたいと思います。

 チュッ・ニャ・ディンの名前を知らないインドネシア在住日本人の方でも、カルティニの名前を耳にしたことがあるという人は結構多いのではないでしょうか。インドネシアで最も正統派と目される婦人雑誌のタイトルはKartini ですし、毎年4月21日の彼女の誕生日は「カルティニの日」として全国各地の公共機関や学校で様々なイベントがおこなわれます。ただ、「カルティニ」と日本語でネット検索すると、なぜか広島の某ホテルが上位にヒットしてしまうのは非常に残念なのですが...

 しかし、ことほど左様に著名な国家英雄でありながら、カルティニの日が女性たちの単なるファッションショーになっている様子を見聞すると、カルティニが目指した理想、実現したかった夢は本当にインドネシアでしっかり理解されているのか、疑問に思わないでもありません。ところで、カルティニは一体どんな業績を生前に残したのでしょうか?
 
 実は、彼女自身は生前大きな業績を残したとは言えず、むしろ大事を成す前に産褥熱のためわずか25歳で早世しています。父親がジュパラ県の県知事という上級貴族の階級に属する彼女は、生前自宅に女性のための学校を開設したものの、規模としては小さく、また彼女の死後閉鎖されています。結婚前のしきたりとして長く閉居の状態にあった彼女がしたこととは、オランダ人のペンフレンドや庇護者に向けて、母語ではないオランダ語を駆使してただひたすら手紙を書き送ったことでした。彼女自身の身の回りの出来事はもちろんですが、女性の地位向上、古い因習への批判、教育の重要性などを溢れるばかりの情熱で書き綴りました。

 彼女の死後に出版された、それらの手紙をまとめた書簡集『闇から光へ』によって、彼女はまず宗主国オランダによって、その近代的啓蒙精神が顕彰され、やがてインドネシア人の民族主義者たちからもその先駆性が評価され、スカルノ政権下の1964年に国家英雄に叙されたのでした。反植民地闘争や民族独立運動や独立戦争の貢献が評価されて国家英雄に列せられた人たちとはかなり異なる、非常にユニークな英雄であることは間違いないでしょう。
 
 そして、土屋健治さんの『カルティニの風景』は、19世紀半ば以降のオランダ植民地社会で成立した「麗しの東インド」と呼ばれる一連の風景画を入り口として、国家英雄カルティニと彼女の死後に成立したインドネシアという「想像の共同体」について、インドネシア人の心象風景を一世紀に及ぶ長いスパンで論じている本です。もっと端的に言えば、日本語で書かれたインドネシアについての本の中で、これほど対象への愛情が行間から溢れ出ているものを私は他に知りません。フリーペーパー「+62」の編集長である池田華子さんが以下のサイトで書かれているように、「こちらが思わず引いてしまうほどの土屋先生の熱情とインドネシアへの思いが、ひりひりするような熱さ」で伝わってきます。本書は地域研究が文学に昇華した本とも評されており、インドネシアについて知りたい学びたいという人には自信を持ってオススメしたいと思います。専門的な内容を扱っていながら、学術的な用語や言い回しは殆どなく、長い時間軸においてインドネシアを理解するのにこの本ほど分かりやすく、また読みやすいものはなかなかありません。

  誤解を恐れずに書くならば、この本は地域研究者であった土屋健治さんの信仰告白の書であり、自分語りの本でもあります。 カルティニと彼女が後世に与えた影響を論じているようでいて、実のところ土屋さんは自身のインドネシア研究遍歴と研究対象への愛情を隠すことなく書いているからです。学術書としては問題のあるスタイルかもしれませんが、一般書のスタイルとして私は断固支持します。異文化や外国社会に接近する方法に正解というものはないと思いますが、土屋さんが本書で取ったアプローチは今もって有効であり、我々のような非専門家も大いに参考にすべきではないかと思うのです。

 しかしながら、私が本書に感じた疑問点についても、ある日本人画家の存在を補助線として以下指摘したいと思います。

 支配者として原住民の上に君臨したオランダ人たちが自分たちの邸宅の応接間の壁に飾るところからこれらの風景画は開始されたと本書では述べられてますが、それらを描いた画家たちのことについてほとんど述べられてないのはなぜなのでしょうか? もともとこれらの風景画を描いていたのはオランダ人でしたが、20世紀に入ると土着のインドネシア人や華人の風景画家も現れ、彼らの中から当時の時代風潮、すなわちインドネシア民族主義や独立運動に共鳴したインドネシア近代美術運動が生まれたからです。具体的には1936年にインドネシア画家協会(プルサギ)が結成されており、その理論的中心人物だったスジョヨノは、支配者であるオランダ人を主な顧客とする「麗しの東インド」(ムーイ・インディ)と称される風景画について、植民地支配の実態を覆い隠すものであり、そこに暮らす人々の息遣いが感じられないとして、厳しく批判しました。インドネシアの民族主義運動を研究テーマとされた土屋さんがプルサギやスジョノに全く言及されていないのは、美術史が『カルティニの風景』のテーマではないとしても、率直に言って非常に奇異な感じがします。おそらく本書の基調であるノスタルジアについて語るには、それについて触れることは一貫性に欠ける、まとまりを欠くと判断してのことかもしれませんが...

 そして風景画を得意とした画家の中には日本人の画家もいたことを土屋さんはご存じだったのでしょうか? 同時代の日本では無名ながら、いまなおネット上のオークションでその名前を確認できるその画家の名前を森錦泉(本名、森吉五郎)と言います。彼が絵画修行のためにパリに赴く途中でジャワに上陸したのが1913年、一方カルティニが亡くなったのは1904年ですから二人が交錯することはなかったものの、限りなく同時代、見ていたジャワの風景はほぼ同じであったと言ってもあながち間違いではないでしょう。


晩年の森錦泉

 森は1920年代に中部ジャワのウォノソボで写真館を開きながら風景画を描いていたようで、おそらくそれよりも前にスラバヤにいた際にはのちに初代大統領となる少年スカルノに絵画の手ほどきをしていたと森の長女は証言しています。日本軍政期に森は日本軍の通訳だったため、戦後は収容所に入れられて日本へ強制送還、しかしスカルノへの嘆願書が功を奏して1956年にインドネシアへ戻りマゲランで没しています。森については記録があまり残っていないため詳細は不明なものの、その経歴から彼がジャワの地を深く愛していたことは確かでしょう。かつてはインドネシア人画家たちによって否定的な評価を受けた「麗しの東インド」ですが、それらの作品がインドネシア近代美術の礎になったことは事実であり、森の作品「スンビン山の眺め」は現在福岡の美術館に収蔵されています。

森錦泉夫妻(撮影年不明)


 彼が風景画として残した風景が、カルティニが、スカルノが、そして土屋健治さんが理想としていたものと同じだったのか、あるいは異なるのか、それは今となっては誰にも分かりません。ただ、「麗しの東インド」の雄大な風景画の中では人の存在がほとんど認識されないくらい小さな存在で風景に溶け込んでいるように、民族や出身に関係なく、安易なナショナリズムに回収されない形で、これらの風景が多くの人たちにこれからも愛されればと私は願ってます。

 カルティニについて書くつもりが、だいぶ脱線したようです。次回は今年の4月に劇場公開された映画Kartiniを中心に、カルティニの生涯と彼女が目指した理想について語りたいと思います。ではまた次回!

【参考】
「+62」編集長池田華子さんの書評
https://plus62.co.id/archives/12111

スンビン山の眺め  森錦泉
https://www.google.com/culturalinstitute

『カルティニの風景』土屋健治 めこん 
http://www.mekong-publishing.com/books/ISBN4-8396-0058-9.htm


※ 本稿を執筆するにあたり、大坪紀子さんより貴重な資料のご提供をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。