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2017年12月27日水曜日

書評『ナニカアル』桐野夏生著

某団体の会報へ寄稿した書評。いつ頃だったか覚えてない...2012年か13年頃?

桐野夏生の小説はそこそこインドネシア語にも翻訳されているが(ただし英語からの重訳が基本)、本作はどうだろうか。2017年12月末時点では確認できてないが、林芙美子が海外でも知名度があるかと言えばかなり心もとなく、多分外国語には翻訳されていないような気がする。

その昔、インドネシア語版の『OUT』を書店で手に取り読み始めたら止まらなくなりほぼ二晩くらいで読了、その後作品の毒気に当てられたのか体調崩して寝込んだことがあった。以後、桐野作品を読むときは体調に万全を期すようになりました。


ぶくぶくニンジャ 
『ナニカアル』 桐野夏生 新潮社 2010年2月 1700円+税




 本書は昭和初期から戦後にかけて大衆的な人気を集めた女流作家・林芙美子を主人公に、「大東亜戦争」中の南方地域、主にインドネシアを舞台とした恋愛小説である。評者は三つの理由から本書に強い関心を寄せてきた。

 第一に著者が桐野夏生であること。出世作の『OUT』インドネシア語版を読了後に作品の毒気に当てられて体調を崩して以降、評者は桐野作品に強く魅了されてきた。読んだ後に疲労を感じる、陰惨で暗い話が少なくないにも関わらず、抗し難い魅力を桐野作品は備えており本書も例外ではない。

 第二に主人公が日本映画黄金期の傑作のひとつ『浮雲』原作者の林芙美子であること。評者は原作を未読だが、昔見た映画の方は、煮え切らない男女が互いの愚痴を言い合うだけの冴えない話、くらいの感想だった。しかし今思い返してみればあの作品以上の大人の恋愛映画というのはそうあるものではない。そして本書は芙美子自身が主人公の『浮雲』でもある。

 第三に、本書の舞台が「大東亜戦争」中の独立前のインドネシアであること。芙美子だけでなく多くの作家・文化人が軍の宣伝のため日本軍占領地域を視察あるいは文化工作に従事している。しかし、敗戦後彼らの多くは「侵略戦争」に加担したという後ろめたさからか、その体験を積極的に語り、創作化することは少なかった。本書は小説という形ながら、戦争とジャーナリズム、戦争と文化人の関係について示唆を与えてくれるだけでなく、一般にほとんど知られていない、開戦前から現地に住んでいた邦人がどのような運命を辿ったかについても教えてくれる。

 本書は芙美子が生前に残した未発表原稿という体裁で物語が進んでいくが、これは『残虐記』と同様の趣向であり、物語の早い段階で彼女が不倫相手の子供を妊娠していることが明かされる。彼女の伝記的事実を知っている者にとって以後の展開の予想はさほど難しくないが、納得できないことには誰にでも啖呵をきる性格の芙美子を一人称として物語が進行するので、読者はかなり感情移入しやすい。しかし評者がもっとも印象に残ったのは中盤から登場する従卒の野口という人物だった。架空の人物である彼は芙美子を見張る軍人であり、おそらく憲兵なのだが、人懐っこいかと思えばねっとりとした観察眼をもち、終始底の見えない人物として描かれている。真綿で首をしめるような雰囲気、戦時下の息苦しさが野口という人物に凝縮されているようだ。

 「日支事変」で戦場ルポを書いた林芙美子を戦争協力作家と捉えることは間違いではない。しかし、彼女の南方体験がなければ、『浮雲』という傑作が生まれなかったことも確かである。誤解を恐れずに言うと、本書のコピーに倣えば「女は本当に罪深い」のかもしれない。

 なお、日本大学の山下聖美准教授が芙美子の南方従軍について現地調査をされているので、関心のある方は以下のサイトを参照していただきたい。
http://www.yamashita-kiyomi.net/archives/cat28/cat27/index.html

 作中では軍の要請で各地を訪問したように書かれているが、他の女流作家と比較してその行動範囲は飛びぬけて広い。本当は、彼女自身が「南方放浪記」を書きたかったから、あるいは本作のように恋人との密会を画策していたから、というのは穿ちすぎだろうか。

<更新履歴>
2017.12.28 ラベル追加

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