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2018年7月29日日曜日

「インドネシア・インディーズ音楽の夜明けと成熟」執筆者 金悠進さんへのインタビュー

某メルマガに前後二回に分けて掲載予定。

私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
9回 『東南アジアのポピュラーカルチャー アイデンティティ・国家・グローバル化』の深みにハマる  ~ 執筆者の一人キム・ユジンさんインタビュー

前回はリッポー(力宝)グループ会長モフタル・リアディが日本経済新聞に一ヶ月連載した『私の履歴書』に私なりの注釈を加えてみました。新聞連載中に日本でおこなわれた講演会に出席したモフタル氏は89歳の高齢ながら矍鑠(かくしゃく)たるご様子で、同行された奥様やご家族と銀座での買い物を楽しまれたとのこと。1950年代後半、モフタル氏の一度目の破産の危機を自ら子供服を縫って助けた奥様は、今でもいざとなれば自分でアパレルブランドを立ち上げて夫を支えられるほどの気力をお持ちらしく、これこそ内助の功。進行中の巨大プロジェクト・メイカルタ開発の進展具合を含め、私にとってリッポーグループへの関心は尽きません。読者の中でモフタル氏の『私の履歴書』及びインドネシア語(又は英語)自伝を未読の方は是非一度手に取ってみていただければと思います。

さて、今回は今年の3月に出版されたばかりの大部の論文集『東南アジアのポピュラーカルチャー アイデンティティ・国家・グローバル化』を紹介したいと思います。全478頁、執筆者17人、全13章プラスコラム20本に現地レポート1本、定価4,000円(税抜き)と盛り沢山な内容で、この手の大著を読みなれてない方にはややハードルが高いと感じられるかもしれません。しかし、扱っているジャンルは映画・テレビ・コスプレ・ファッション・ラジオ・舞踊・ポピュラー音楽・インディーズ音楽・歌謡曲と多種多様、対象国もインドネシアは勿論のこと、他の東南アジアの事情についても詳細に分かりやすく記述されており、読者は自分の関心に合わせてどの章どのコラムからでも読める構成になっています。本書の目次を以下に挙げておきます。

478頁の重量級。厚くてアツい『東南アジアのポピュラーカルチャー』


はじめに(福岡まどか)
 序章:東南アジアのポピュラーカルチャー 〜アイデンティティ・国家・グローバル化〜(福岡まどか)
■第1部 せめぎあう価値観の中で
 第1章:タイ映画・テレビドラマ・CM・MVにみる報恩の規範 〜美徳か抑圧か、「親孝行」という名のもとに〜(平松秀樹)
 第2章:シンガポールにおける政府対映画製作者間の「現実主義的相互依存/対立関係」(盛田茂)
 第3章:農村のポピュラー文化 〜グローバル化と伝統文化保存・復興運動のはざま〜(馬場雄司)
 第4章:国民映画から遠く離れて 〜越僑監督ヴィクター・ヴーのフィルムにおけるベトナム映画の脱却と継承〜(坂川直也)
 〔コラム1〕コスプレとイスラームの結びつき(ウィンダ・スチ・プラティウィ)
 〔コラム2〕テレビと悪行(井上さゆり)
 〔コラム3〕インドネシア映画にみられる「未開な地方」の商品化(小池誠)
 〔コラム4〕タイ映画にみるお化けの描き方(津村文彦)
 〔コラム5〕ポップカルチャーとしてのイレズミ(津村文彦)
 〔コラム6〕イスラーム・ファッション・デザイナー(福岡正太)
 〔コラム7〕タイ映画にみられる日本のイメージ(平松秀樹)
■第2部 メディアに描かれる自画像
 第5章:フィリピン・インディペンデント映画の黄金時代 〜映画を通した自画像の再構築〜(鈴木勉)
 第6章:インドネシア映画に描かれた宗教と結婚をめぐる葛藤(小池誠)
 第7章:フィリピンのゲイ・コメディ映画に投影された家族のかたち 〜ウェン・デラマス監督の『美女と親友』を中心に〜(山本博之)
 第8章:スンダ音楽の「モダン」の始まり 〜ラジオと伝統音楽〜(福岡正太)
 〔コラム8〕愛国歌と西洋音楽 〜インドネシアの国民的作曲家イスマイル・マルズキ〜(福岡まどか)
 〔コラム9〕ミャンマーの国立芸術学校と国立芸術文化大学(井上さゆり)
 〔コラム10〕さまざまな制約と検閲がつくる物語の余白(山本博之)
 〔コラム11〕インドネシア映画におけるジェンダー表現と検閲システム(福岡まどか)
 〔コラム12〕映画を通して広まった音楽 〜マレーシア音楽・映画の父P・ラムリー〜(福岡まどか)
 〔コラム13〕シンガポールにおける「ナショナル」なインド舞踊の発展(竹村嘉晃)
■第3部 近代化・グローバル化社会における文化実践
 第9章:メディアから生まれるポピュラー音楽 〜ミャンマーの流行歌謡とレコード産業〜(井上さゆり)
 第10章:インドネシア・インディーズ音楽の夜明けと成熟(金悠進)
 第11章:人形は航空券を買うことができるか? 〜タイのルークテープ人形にみるブームの生成と収束〜(津村文彦)
 第12章:越境するモーラム歌謡の現状 〜魅せる、聴かせる、繋がる〜(平田晶子)
 第13章:「ラヤール・タンチャップ」の現在 〜変容するインドネシア野外映画上映の「場」〜(竹下愛)
 〔コラム14〕東南アジア映画で増す、韓国CJグループの影響(坂川直也)
 〔コラム15〕ステージからモスクへ?(金悠進)
 〔コラム16〕アセアンのラーマヤナ・フェスティバル(平松秀樹)
 〔コラム17〕変化する各地のカプ・ルー(馬場雄司)
 〔コラム18〕スマホは複数持ち(井上さゆり)
 〔コラム19〕IT化が進む農村社会(馬場雄司)
 〔コラム20〕「ラテ風味」のイワン・ファルス 〜インドネシアのカリスマプロテストソングシンガーの現在〜(竹下愛)
 〔現地レポート〕東南アジアのトコ・カセット(カセット店toko.kaset)訪問記(丸橋基)
あとがき(福岡正太)

本書の特徴はめまぐるしく変容しつつある東南アジアという地域とそこに住む人々の今を、ポピュラーカルチャーを通じて事細かに描写することに成功していることだと思います。総論よりも各論重視の結果、ポピュラーカルチャー全体を把握することはこの大著を読破しても容易ではないのですが、しかしそれこそがこの分野の研究がまさに現在進行中であり、文字通りアツいことに他なりません。
近年は農村部でもIT化が進み、伝統的価値観とそれを反映していた伝統芸能や芸術も否応なく変容しつつあり、かつてのハイ・カルチャーとサブ・カルチャーという二項対立的図式そのものが揺らいでいる中では、ポピュラーカルチャーをジャンルとして定義するのは難しい、と編著者の福岡まどか氏は述べています。またネット時代以降、同時代文化の生産・流通・消費を一人で研究分析することはその広がりと拡散速度から容易ではなく、複数の研究者が共同執筆する本書のスタイルは本が厚くなりすぎるきらいはあるものの、それだけの深みと面白さが感じられる内容です。福岡まどか氏は序章を次のように結んでいます。

東南アジアの人々に対して多くの人々が抱くイメージは、自然と共存し伝統文化を守り深い信仰心に支えられた生活をする人々というものが一般的かもしれない。だがその一方で東南アジアの人々はまた、メディアを駆使し、物質文化を謳歌し、論争に参加し、多様な面で創造性を発揮していく人々でもある。文化のもつ力がどのように、人々に、社会に、そして世界に影響を及ぼしていくのかという問題に、現代東南アジアのポピュラーカルチャーをめぐる研究はひとつの鮮烈なイメージをもたらしてくれるのではないだろうか。(同書50頁)

この論文集に先行すること23年前、『インドネシアのポピュラーカルチャー』という名著がめこん社から出版されており、その帯は「インドネシアおたく大集合」というものでしたが、本書には「東南アジアおたく大集合!」との帯をつけたくなる衝動に私はかられたことをここに告白しておきます。



今読んでも十分面白い内容でおススメの『インドネシアのポピュラーカルチャー』

 
閑話休題。『東南アジアのポピュラーカルチャー』執筆者の一人、金悠進(キム・ユジン)さんは数年前からの知り合いだったので、本書読了後にインタビューを申し込んだところ、快諾していただきました。 分量が多くなってしまったため、前半後半に分けて以下掲載したいと思います。

- 本書のご出版、誠におめでとうございます。 まずはじめに、ユジンさんの簡単なプロフィールを教えていただけますか

1990年大阪生まれの27歳。同志社大学法学部政治学科卒。現在、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程在籍中です。20177月から2018年末ごろまでバンドゥンに滞在予定です。

 - この論文集へ寄稿することになった経緯は? また執筆者の専門は分野も地域もバラバラで、それが本書の魅力の一つだと思いますが、内容のチェックや確認作業は大変だったのでは?
 本論文集は研究会の成果出版ですが、その研究会のメンバーである坂川さんのご紹介のもと、聴取者として定期的に参加させていただいたのがきっかけです。本書の編著である福岡まどか先生、福岡正太先生のご厚意に預かり、また大変幸運なことに、自分の関心が本書の目的から大きく外れるものではありませんでしたので、執筆させていただくことになりました。ただ、海外人名表記の統一や現地語のカタカナ化は大変でした。私の苦労は微々たるもんですが、出版社の方からの微細な部分に至るご指摘に頭が下がりました。

 - ユジンさんの専門であるインドネシアのポピュラー音楽についていくつか質問させてください。インドネシアのポピュラー音楽の特徴を一言で表すとしたら何でしょうか?また日本のポピュラー音楽との共通点あるいは相違点は何でしょうか?

 特徴は「ある」とも「ない」とも言えます。
 日本との違いは、音楽シーンの新しい動きが歴史的に地方から生まれてきたことでしょうか。日本のように東京一極集中的では必ずしもありません。初の娯楽雑誌「ディスコリナDiskorina」はジョグジャカルタで創刊されました。初のロック雑誌「アクトゥイルAktuil」、初のインディペンデント・ジャズレーベル「ヒダヤットHidayat」はバンドンで創刊・設立されました。毎年恒例の巨大ロックフェスティバルはスラバヤとマランを中心に初めて開催されました。初のインターネット専門レーベル「YES NO WAVE」はジョグジャで創設されました。
 また、日本的「上京」文化は、インドネシアでもかつてありましたが、最近は首都ジャカルタに移住せず地元や地方都市を拠点に活動する音楽関係者が多い気がします。
 あと、特徴が「ない」というのは、私の元々の専門が音楽学ではないため、それをうまく表現できないところがあるためです。特徴は一応あるにはあります。ただ、「インドネシア独自の音楽」といった表現は少なくとも私は避けています。

 - インドネシアはご存知のとおり多宗教多民族国家であり、同時に多種多様な地方文化が、また日本とは比較にならないほどの所得格差が存在する文字通りの大国です。この大国をまとめる国是「多様性の中の統一」は、ポピュラー音楽のシーンにおいてどのように実践されてきたと考えますか?

 私は、よく巷で言われる「インドネシアは内外のあらゆる文化を受け入れる寛容な文化的土壌がある」というステレオタイプな見方にちょっと否定的です。60年代前半にスカルノ大統領がロックンロールの演奏を規制したり、70年代の洋楽かぶれエリートが大衆歌謡「ダンドゥット」を侮蔑したように、異文化を受け入れない側面もあったのは事実です。あるいは、「多様性の中の統一」という国是に異議を唱える音楽実践も多々あります。
 とはいえ、ジャズミュージシャンがスンダやジャワやバリなどの伝統楽器を取り入れる、スカ系バンドがダンドゥットを取り入れるなどといった事例は決して珍しいものでも新しいものでもありません。「多様性の中の統一」という建前が実態を伴う現象は確かにあるでしょう。

 - なるほど。多様性に絡めて質問を続けると、インドネシアでは階級あるいは階層によって好む音楽ジャンルが異なるというのがかつての定説でした。例えば、ダンドゥットは大衆のための音楽(インドネシアの演歌などと形容されたこともありました)、ロックは都市エリートのための音楽というように。ただ、近年はこうした単純な区分けが有効でなくなっていると思います。

 おおむねその通りでしょう。ただ、この区分けを考える際には、①支持層、②演奏者、③評論家の3つの側面を区別して論じる必要があります
 例えば支持層。中間層がダンドゥットコンサートで楽しく踊る様子はよく見ますし、別に新しいことではないです。逆に、低所得層がロックのリスナーであり、何百kmかけて路上ライブしながら小銭かき集めてメタルライブに死に物狂いで参加することもあります。
 しかし、演奏者を見た場合、ダンドゥットが庶民出身からスターダムへのし上がる夢を与えるのに対し、ロックミュージシャンの場合、私の調べた経歴調査の限りでは比較的豊かな家庭環境でなければスーパースターになりにくい、敗者復活が成り立ちにくいです。インドネシアに「矢沢」はいません。日本のポピュラー音楽との違いの一つでしょう。
 また、音楽評論家の中でも、特に「ロック派」の中ではいまだにダンドゥットに対して距離を置く者がいます。昔のようにダンドゥットを侮蔑することはありえませんが、「ダンドゥットは嫌い」と公言するロックジジイもいますし、「(ダントゥットの王様)ロマ・イラマだけはええけどなあ。他はあんまり。」という人もいます。音楽的嗜好は嘘をつけません。それはインドネシア人の評論家が執筆したエッセイ集や「ベスト・ソング/アルバムトップ〇〇」と銘打ったものを見れば明らかです。

 - 大きな傾向として、東南アジアのポピュラーカルチャーが以前のような「伝統」と「近代」の二項対立から最近は脱却しつつある印象を論文集全体から受けました。インドネシアの地域専門家であるユジンさんは、ポピュラーカルチャーを分析研究する際にそうした二項対立的な観点を重視されますか?

 これも重視するとも言えますし、重視しないとも言えます。そろそろメルマガ読者の方にさすがに「白黒ハッキリせんかい」と怒られそうですが(笑)。
 まず大前提として、私自身はそうした価値判断を一切せず、全て現地の方々の価値観に委ねています。例えば、「伝統」と「近代」の対立が有効であった時代というのは確かにありました。少なくとも70年代までは強くあったでしょう。
 一つ象徴的な事例を挙げます。美術界におけるバンドゥン派対ジョグジャ派の論争です。西洋近代至上主義者のバンドゥン派の美術家に対してジョグジャ派は「西洋の奴隷」と批判し、バンドゥン派はジョグジャ派に対して「伝統的」というレッテル貼りを行い、民族性を否定しました。このような対立軸は現在有効ではなくとも、一般社会の中でバンドゥンの人々が「バンドゥンはモダンでありジョグジャは伝統的だ」という語りは今でも見聞きします。対立軸は鮮明ではなくとも、見え隠れしており、完全に無視はできないです。

  - ユジンさんは以前の論文で、政治のアウトサイダーである建築家リドワン・カミルが「創造経済」や「創造性」を有権者にアピールする新しいタイプの首長としてバンドゥン市民から支持される文化的土壌を論じてました。先日リドワン・カミルは西ジャワ州知事選挙で勝利しましたが、論文を発表された昨年の時点でこの結果を予想されてましたか?
参考 ; 東南アジア研究551号掲載の論文
https://kyoto-seas.org/wp-content/uploads/2017/07/550103_Kim.pdf
 「創造都市」の創造 ―― バンドンにおける若者の文化実践とアウトサイダーの台頭――[Invention of “Creative City”: Youth Cultural Practices and the Rise of an Outsider in Bandung]

 正直、どうでもよかったです(笑)。リドワンが勝とうが負けようが。ただ、1年前の世論調査ですでにリドワンの支持率はダントツだったので、勝つだろうとは何となく思っていました。しかし、ジャカルタ前州知事アホックが宗教侮辱罪で告発され選挙で敗北、裁判でも有罪になった事件があったので、選挙はどうなるかわからんなあとも思いました。とはいえ、あの投稿論文を書いたあと、自分の興味関心に正直に向き合った結果、面白くない選挙分析からは一切手を
引きましたので、今回の西ジャワ州知事選は全くフォローしていません(笑)。

 - えっ、それは予想外の展開(笑)。私としてはカン・エミル(リドワンの愛称)が支持層の多いバンドゥン以外でどれだけ人気があるのか、やや懐疑的でしたが、地域ごとの候補別得票率を比較してみると、やはり濃淡はあるようです。彼が「創造経済」を政策の軸として、保守的な農村部と日系自動車関連企業をはじめとする工業地帯が混在する西ジャワ州行政をどう切り盛りしていくか、注視したいと思います。
前述の論文に関連して質問を続けます。バンドゥンがインドネシアにおいてもっとも創造性の高い都市であること、或いは創造経済を盛り上げる文化的土壌があることに異論はないのですが、一方でバンドゥンは80年代以降勃興したダッワ・カンプス(大学におけるイスラーム宣教復興運動)の中心地でもあり、西ジャワ州全体で言えば、イスラーム主義団体や政党が政治的にも無視できない勢力を誇ります。先日の州知事選挙結果も、見方によっては現在のジョコウィ政権に満足していない層が多数を占めたとの解釈も可能です。
創造経済とイスラーム主義の相性は良いのでしょうか、悪いのでしょうか?

 相性は抜群だと思います。特にイスラーム・ファッションの分野では、創造経済庁がサポートしている面もありますし。政治的にも、敬虔なムスリムアピールが有効でしょう。実際、西ジャワ州知事選挙予想で、一時期どの候補者よりも下馬評が高かったのは、バンドゥンの説教師アア・ギムでした(出馬はしてない)。
 ただし、2013年バンドン市長選挙に限って言えば、りドワン・カミルがイスラーム主義政党の支持を取り付けたことに対して、創造経済を盛り上げてきた主要人物たちが、次々と拒否を表明したことも事実です。「創造経済」と一口でいってもその下位部門は10分野以上ありますので、イスラーム的結び付きのある側面と薄い側面があります。
 個人的な最大の関心は、なぜバンドゥンでイスラーム運動と世俗的な音楽実践が同時代的かつ局地的に発展してきたのか、という問いです。これに対する答えは簡単ではありません。これを解く一つの鍵は、軍です。これは現在調査中・コツコツ執筆中ですので、ここで申し上げることはできません。

- 軍、ですか。バンドゥンのもう一つの顔、オランダ植民地時代に起源をもつ軍事都市という側面は日本ではあまり論じられてないと思うので、いずれ調査結果を論文等の形で発表していただければ個人的には嬉しいです。
 ところで、論文集に収められたユジンさんの論考で一番印象深かったのは、スハルト体制崩壊以降に大きく飛躍したインディーズが近年インターネットの普及によって直面する二律背反的な状況、タバコ会社や国軍のサポートや庇護なしでは存続が難しい根本的なジレンマについて書かれた終章でした。アーティストの自主独立性と商業主義の関係は、あらゆる芸術における古くて新しい問題と考えますが、突破口はどこにあると予想しますか?

 難しいですね(笑)。私の調査地であるバンドゥンでは、あくまで直感的な印象に過ぎませんが突破口はなさそうです。「隣の芝生は青い」だけかもしれませんが、ジャカルタやジョグジャの方がよっぽど「アツイ」気がします。これも印象論です(笑)。
 それはともかく、ジレンマをジレンマとして捉えなくなる時代が来るかもしれないですし、インドネシアの場合、若者人口も多く、安定的な経済成長も達成できているので長い目で見ればそこまで心配は必要ないかもしれません。所得水準が上がれば良いという問題ではないですが、生活面・インフラ面での下支えはなくてはならないでしょう。豊かな文化資本は自主独立性を再生産します。
 直接の関係はないですが、現在、K-POP人気がローカル音楽を凌駕する調査結果があります。K-POP人気にどれだけ持続性があるかはわかりませんが、面白いですね。
 ひょっとしたら、突破口はイスラームかもしれません。つまり宗教ソングです。あらゆるジャンルは栄枯盛衰を繰り返しますが、インドネシア音楽史を俯瞰した場合、最も長らく享受されている音楽にジャズ(ほぼ100年間)が挙げられますが、その次におそらく宗教ソングがあります。しかも、それが社会のイスラーム化を背景に大衆的人気をこれまでの勢いに増して獲得しつつある。音楽がイスラーム化することは音楽産業の持続的発展にある程度寄与する可能性があります。ただ一点、条件付きです。音楽を「ハラム(禁忌)」として拒否する説教師や、音楽そのものを否定する元音楽関係者が影響力を持つことがない限り、です。これは最悪のパターンです。

 - ポピュラー音楽と宗教、特にイスラームとの関係はこれまで以上に注視していく必要があるのかもしれませんね。
 では最後に、一番好きな歌手あるいはバンド、曲名を教えてください。

INPRESの『INPRES I/V/80 Eloi! Lama Sabactani!』(1980年)です。

 
- 長時間のインタビューにお付き合いいただき、ありがとうございました!



<参考文献>
福岡まどか・福岡正太編著 『東南アジアのポピュラーカルチャー アイテンディティ・国家・グローバル化』 スタイルノート 2018326日発行
松野明久編著 『インドネシアのポピュラーカルチャー』 めこん 1995121日発行


 

2018年7月16日月曜日

第53回インドネシア語技能検定試験B級を受けました

 一昨日2018年7月16日の日曜日、前回と同じPasar Festival 内にあるバクリー大学の教室でインドネシア語技能検定試験(UKBI) 一次試験を受けました。
 
 今回は安全パイのB級のみ、A級はB級合格してからということで。

 我ながら呆れるくらい勉強してなかったので、案の定というべきか、回答見直しの時間はあまり残らなかったものの、自己採点では70点は確実といったところ。リスニングは前回よりもちゃんと聞き取れたので一安心。答えが合っているかはまだわかりませんけれど...


以下は問題文の中で気になってメモした単語や表現など。ことわざは苦手です...

terkunkung
kolot
landasan
terbelenggu
tersiksa
gigit jari
alot
diferensiasi
disposisi
divestasi
sakral
cuci tangan
terpatri
lubuk
terpaku
Telunjuk lurus belingking berkait.
Tak ada rotan akar pun jadi.
menuntaskan
menghilangkan
menafikan
menampar kesadaran
ampas
tempurung
cangkang
anarkis
bertebaran
limpahi


これで今回もし不合格だったら相当落ち込みそう。大丈夫かしらん?

前回面接では3問目で頭が真っ白になる失態を演じたので、今度はちゃんと復習していくよ!

2018年6月10日日曜日

リッポーグループ創設者モフタル・リアディの履歴書読み比べ


某メルマガ掲載予定の原稿。

私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
8回 リッポーグループ会長モフタル・リアディの履歴書読み比べ

 前回までは三回にわたりインドネシア社会を読み解くキーワードとして怪奇映画やオバケについて語ってきました。今回からは去る3月に出版された論文集『東南アジアのポピュラーカルチャー アイデンティティ・国家・グローバル化』を元にインドネシア及び東南アジアの大衆文化についてより突っ込んだディープな話をするつもりでしたが、急遽予定を変更して、インドネシアを代表する華人財閥リッポー(力宝)グループ会長モフタル・リアディの履歴について簡単なメモを残したいと思います。

 本稿執筆のきっかけは、5月発行の本メルマガに日本経済新聞文化欄「私の履歴書」バックナンバーが添付されており、リッポー会長の自伝を日本語で読んだことです。この連載は第三者による公正で客観的な伝記とは違うものの、実に読み応えのある自伝だったと言えるでしょう。伝記作家ではない私には彼の自伝の記述がどこまで正確か検証することはできませんが、「私の履歴書」とは別のソースをいくつか挙げることで、本メルマガ読者に大企業経営者の自伝をどう読み解くべきか、考える材料を提供したいと思います。

 「私の履歴書」は全30回の連載でしたが、実はインドネシア語では2年前に既にモフタル・リアディの自伝がインドネシアを代表する高級日刊紙KOMPAS社から出版されています。リッポーグループの傘下にあるMatahari Hypermartのレジ置き場では一時期この自伝が必ず置いてあったので、中身を読んだことがなくても表紙に見覚えのある方は結構いるのではないでしょうか。




インドネシア語版




英語版 (目次を見る限りインドネシア語版とほぼ同じ内容の模様)

 トリビウムアパートにあるJapan Information center 図書館にも本書は置いてありますので、チカランにお住まいの読者の方は一度手にとってみては如何でしょうか。書棚の一番上にケースつきの豪華版が二冊あります。どうやらリッポー側からの寄贈のようです。 

 私自身はインドネシア語版を定価よりも安く入手する機会があって購入したものの、ほとんど読んでない積読状態だったのですが、今回「私の履歴書」連載を読むのと同時に改めて最初から本書を読んでみました。幼少期から青年期までのところは非常に読みやすく、極めて平易なインドネシア語だったのが意外で、当然ながら「私の履歴書」とほぼ変わらない文章と内容でした。中盤以降の銀行業の記述はやや専門的な内容も含むものの、文章そのものは必ずしも難解ではないように感じられました。

 よって、インドネシア語が少しでも分かる方は語学の勉強にもなりますので、「私の履歴書」と自伝を交互に読むことをお薦めいたします。とりわけ、日本軍政期、ビル・クリントンの印象、95年の銀行取り付け騒ぎなどの記述においては明らかに表現の相違が見られ、リッポー会長が日本人読者に伝えたいこと、或いは伝えたくないことが暗示されており実に興味深く読めるはずです。

 以下、連載回の内容に対しインドネシア語版自伝で対応している頁の一覧を作成しました。これから自伝を読まれる方のお役に立てればと思います。連載後半部は単語の拾い読みでどの頁か判断している箇所もあるため、読み落としや間違いについては大目に見ていただければ幸いです。

モフタル・リアディ 日経連載「私の履歴書」及び自伝 対照表  
  
掲載日       連載回   タイトル     インドネシア語版自伝頁数
201851日   1      独り立ち     書き下ろし
201852日   2      誕生        pp.3-4
201853日   3      幼年期      pp.4-5
201854日   4       帰郷        p.6, p.8
201855日   5      悲哀        pp.7-9
201856     6       占領下       pp.10-13
201858    7      闘争        pp.14-15
201859日   8      南京の大学    pp.15-17
2018510   9         奇跡            pp.18-19
2018511日  10       探訪            pp.23-25
2018512日  11         結婚             pp.25-28
2018513日  12         創業           pp.28-32
2018514日  13         破産の危機    pp.53-55, p.57
2018515日  14         大志           pp.33-42
2018516日  15         成長             pp.42-46
2018517日  16         出会い        pp.46-52, pp.67-68
2018518日  17         飛躍             pp.69-78, pp.84-88
2018519日  18         海外へ       pp.96-103,pp.108-109
2018520日  19         友情             pp.126-127, pp.177-178
2018521日  20         約束             pp.184-193
2018522日  21         力の宝       pp.114-115, p.165, pp.150-154
2018523日  22         独立              pp.156-160, pp.110-113
2018524日  23         事業拡大         pp.111-113
2018525日  24         危機              pp.206-208
2018526日  25         撤退             pp.229-235
2018527日  26         新たな挑戦      pp.237-242, pp.275-276
2018528日  27         2人の後継      pp.264-275, 一部書き下ろし
2018529日  28         戒め              一部書き下ろし、pp.123-125, pp.192-193
2018530日  29         私生活        ほぼ書き下ろし、pp.97-98
2018531日  30         未来              書き下ろし

 「私の履歴書」の連載が始まったと聞いて私が一番に気になったのは、1996年に米国で大問題となった民主党への献金スキャンダルと、自身のキリスト教信仰について、どこまで踏み込んで記述するのかという二点でした。ひょっとして全く触れることもなく連載終了するのかなと連載23回目の頃は危惧していたのですが、最終回直前にちゃんと触れていたのはなかなかフェアなことで素直に感心しました。ただ、記述に物足りなさがあるのは自伝という体裁上やむをえないところでしょうか。

米国での民主党献金スキャンダルはアメリカ事情に詳しい人なら聞いたことがあるかもしれませんが、何しろビル・クリントンが大統領二期目を目指して選挙運動をしていた頃、二十年も前の出来事なので、簡単におさらいしますと、ビル・クリントン及び民主党へのリッポーグループという外国企業からの巨額の献金が問題視された事件のことを指します。マスコミの過剰な報道があったにせよ、最終的には違法な献金と認定、リッポー側には選挙運動資金に絡む罰金では過去最高額が課せられ、モフタルの次男ジェームスは2009年まで米国入国を禁じられたと報じられました。この件にジェームズはほとほと懲りたようで、「カネと権力は共に祝福であり呪いであると私は学んだ」と、あるインタビューでは述懐しています。もっとも、このスキャンダルの余波によって当時のアジア系アメリカ人コミュニティは「怪しい外国企業の手先」というレッテルを貼られて相当なショックとダメージを被ったようです。(村上由見子『アジア系アメリカ人』pp.130-139参照)モフタルの自伝も「私の履歴書」も自分本位な回想にとどまっているとのアジア系アメリカ人からの非難があるとすれば、それは正当なように私には思えます


 もう一点のキリスト教信仰については、自伝ではほとんど触れてないものの、キリスト教信仰を核とした教育機関の設立と運営に熱心なこと、次男ジェームズが熱心な福音主義者である事実がずっと気になっていました。連載第29回の信仰についての箇所は文字通りの信仰告白で、あれほどの大実業家であり資産家にしてなおキリスト教を信仰することで心の平安を保っている様子がはっきり窺えます。ムスリムが多数派のこの国で、超富裕の華人財閥トップがキリスト教への信仰を赤裸々に語ることは場合によってはリスクは伴うかもしれず、日本経済新聞という日本語媒体ゆえに可能だったのかもしれません。


 さて、「私の履歴書」を読み解く補助線として、最後にもうひとつ文献を挙げておきます。インドネシア華人名士録とも言うべき事典『印尼華族名人集 Tokoh-Tokoh Etnis Tionghoa Di Indonesia 』です。前近代から現代まで、インドネシアで著名な華僑・華人の短い履歴をまとめた本で勿論モフタル・リアディの項目もありますが1頁程度の分量です。読んでみて気づいたのは、モフタルの父親がはじめの妻との死別後に後妻を娶ったこと、家具を扱う商人だったとの記述があること。また、ライオンズクラブの会長職にあったことや複数の有名大学で演説をおこなったり著作が自伝の前にも二冊あることにも触れてます。

 脱線しますが、この事典は華人といえば富裕な実業家や資産家を思い浮かべる多くの読者の思い込みを修正する、多種多彩な華人たちの経歴がコンパクトにまとまっている素晴らしい内容です。華人名とインドネシア人名、両方での検索が可能なので、この分野に関心のある方は是非探してみてください。





 今後ますます発展するリッポーチカランそしてメイカルタには現在の居住者人数以上の日本人が移り住むはずで、その開発を担うリッポーグループ会長の自伝と関連書籍を読んでおくことは、リッポーのビジネスモデルやビジョンを知る上でも有益ではないでしょうか。「私の履歴書」を未読の方に強くおススメする所以です。

 この稿を閉じるにあたり、「私の履歴書」バックナンバーをこのメルマガに提供していただいた小野俊信さん、そして編集責任者の宮島さんに深く感謝する次第です。有難うございました。

 次回は今回取り上げるはずだった論文集『東南アジアのポピュラーカルチャー』の紹介をしたいと思います。それではまた来月!

<参考文献>
Mochtar Riady, Otobiografi Manusia Ide, PT Kompas Media Nusantara, Januari 2016
Drs,Sam Setyautama, 印尼華族名人集 Tokoh-Tokoh Etnis Tionghoa Di Indonesia , KPG,Agustus 2008  
村上由見子 『アジア系アメリカ人 アメリカの新しい顔』 中公新書 1997725日発行

(2018年6月12日 誤字脱字訂正、一部改稿)

2018年5月29日火曜日

インドネシアのイスラーム復興現象はアーチェリー大国への道?!

「風が吹けば桶屋が儲かる」的な話ですが、先日近所のメスジッドの前を散歩していて、閃いた命題がタイトルです。まだ論証不十分ですが、近々別のメスジッドで見かけたポスターやメスジッド隣の空き地の利用方法、そして昨年末か今年初めにAFPが報じたインドネシアのある記事を元に後日投稿を追加予定。

イスラームとアーチェリーの関係は、素人の私なんかよりも研究者が既に指摘していることなんだろうけれど、今はバドミントン大国のインドネシアが十年後にはアーチェリー強国になっている可能性はゼロではないんじゃないかな。

ちなみに、インドネシアで初のオリンピックメダルは1988年ソウル大会での女子アーチェリーでした。3 Srikandi という題名で映画にもなっています。




劇場公開時に見逃しちゃいましたが、ひいきのレザとチェルシーとタラ姐さんが出ているので、何とか見たいものです。

2018年5月5日土曜日

境界を越える女妖怪、クンティラナック

某メルマガに掲載予定の原稿。
 
私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
7回 境界を越える女妖怪、クンティラナック

 
前回はインドネシア怪奇映画の女王スザンナについて語り、最後は彼女の代表作Sundel Bolong の有名な場面を紹介しました。読者の方々はこの動画を見てゲラゲラ笑ったでしょうか?それともサテ屋の二人組のように、恐怖のあまり逃げ出したでしょうか?あるいはあまりの荒唐無稽さに馬鹿ばかしさに唖然(あぜん)とされたでしょうか?

深夜のサテ屋でスザンナはサテ200串を注文して一気食い、その正体は...


 さて、今回も前回に続きオバケの話ですが、特定の映画からは少し離れ、オバケや妖怪という魑魅魍魎(ちみもうりょう)が東南アジアにおいてどのように生まれ、発展し、さらに今後継承されていくのか、最近のニュースなども参考にしながら考察してみたいと思います。

 去る3月ボゴール交通警察は女妖怪「クンティラナック」Kuntilanakを広報動画に起用、こうした面白いネタに敏感なインドネシアのネット界では少し話題になりました。ヘルメット未着用のクンティラナックが交通警官に違反切符を切られ泣いて後悔するという内容です。





 妖怪にも交通ルールを遵守させようとする警察官、一方彼を偽紙幣で買収しようとするも逆に違反切符を切られるクンティラナック、この対比が可笑しいのですが、クンティラナックが誰でも知っているメジャーな妖怪であることもこの動画の面白さに寄与していると思います。
 
 ここで改めてクンティラナックという女妖怪について説明しておきましょう。クンティラナックは別名ポンティアナックpontianak とも呼ばれ、インドネシアだけでなくマレーシアでもきわめて知名度の高い妖怪です。西カリマンタンの州都はまさにそのポンティアナックという名前であり、その由来はスルタン(イスラームを奉じる王様)が王宮を造るさいにその地にいた女妖怪ポンティアナックを追払ったことにあると伝えられています。クンティラナックの特徴としては、①元は妊娠中あるいは出産直後に亡くなった女性、②青白い顔に長い黒髪を持ち白い衣服を着ている、③うなじ又は背中に穴があり釘や刃物でそこを塞がれると動けなくなる、④樹木の上に住み鳥のように空を浮遊する、などです。
 
 マレーシアではこの女妖怪はポンティアナックと呼ばれるのが一般的で、これはマレー語の perempuan mati beranak(出産時に死亡した女性)を短くしたものとの説があります。同様の女妖怪はバングラデシュやインドなどの南アジアにおいてはチュレルChurelと呼ばれ、日本の産女あるいは姑獲鳥(うぶめ)、タイのメー・ナーク・プラカノンとも親しい類縁関係にある妖怪と言えるでしょう。
 
 シンガポール繁栄の礎を築いた英国人ラッフルズの書記を務めたマレー人のアブドゥッラーはマレー半島で信じられている悪霊や妖怪について、自伝の中で以下のように書き記しています。マラッカに宣教師として赴任していたミルン氏の奥方とのやりとりです。

 彼女は一人の中国人の女性を雇っていて、彼女の服や子供たちの服を繕わせていた。ある日のこと、この中国人の女性がミルン夫人のところへやってきて言った。
「昨日、私の子供は家でプンティアナクとポロンに魅入られて死ぬところでした」
 ミルン夫人は、プンティアナクとポロンという言葉がわからなかった。中国人の女性は手振りや言葉でいろいろと説明しようとしたが、夫人は理解できない。そこで二人は、私が書きものをしている部屋にやって来て言った。
「プンティアナクやポロンというのは、どういう意味なの?」
 私は笑った。そしてミルン氏に、中国人やマレー人が信じている、愚にもつかない、役にも立たない、ありとあらゆる悪霊の名を、はっきりと説明した。それは我々の先祖の時代から受け継がれ、今日に至るまで続いているのである。私はそれらがおよそ幾つぐらいあるのか、その数をあげることも、また、その意味をはっきりさせることも出来ない。(後略)

アブドゥッラー著、中原道子訳『アブドゥッラー物語 あるマレー人の自伝』 平凡社東洋文庫 pp.108-109

 
プンティアナクとはポンティアナックを指し、訳注では「吸血鬼。産褥にある婦人とか子供を餌食にする悪霊」と解説されています。またポロンは使いの精で、遠隔地にいる誰かに取り憑く悪霊と言われます。この後アブドゥッラーは二十五にも及ぶ悪霊の種類や名前を挙げ、それらに対処するための悪魔祓いや魔術についても語っています。

 また、前世紀初頭にウォルター・スキートが著した『マレー魔術』には、死産した女性が化けたのがランスィールlangsuirであり、ふくろうの姿をして空中を浮遊するとの説明があります。そして彼女の子供がポンティアナックなのですが、年月を経るうちに両者は混同されるようになり、現在ではポンティアナックの方が子供を死産した女妖怪と認識されているようです。

首から下は内臓だけの女妖怪ペナンガランpenanggalanとランスィールlangsuirランスィールの長い爪が鳥を連想させる。
『マレー魔術』より

 このようにクンティラナック(ポンティアナック)はインドネシアやマレーシアという国家が誕生するよりも遥か昔から東南アジアに存在する伝統的なオバケなのですが、日本の妖怪の姿形が漫画家水木しげるの手によって明確なビジュアル化を施され多くの人々の共通認識となったように、クンティラナックもその姿形がはっきり定まったのは視覚メディアである映画を通してでした。マレーシアでのポンティアナック映画は1957年にキャセイ・クリス社によって製作された第一作を嚆矢(こうし)としてこれまでに15本以上が製作されており、一方インドネシアにおけるクンティラナック映画は1962年に喜劇色の強い第一作が公開、その後長い空白の期間を挟んで、2000年代にはほぼ毎年クンティラナックという名前を冠した作品が公開され人気を博しました。これらの中には怪奇ものというよりはコメディに分類すべき作品も含まれていますが、両者を合わせると30本前後の映画がこれまで作られてきました。

 なお、マレーシア初のポンティアナック映画主演女優はマリア・メナードといい、彼女はオランダ植民地時代に北スラウェシのマナドで生まれ、ジャカルタを経て戦後のマレー半島やシンガポールでモデルをしていたところ映画女優としてスカウトされたという経歴を持ちます。当時東南アジアで一番の美女と呼ばれた彼女が世にも恐ろしく醜い怪物ポンティアナックに変貌する場面が大いに観客に受け、映画は大ヒットを飛ばしシリーズ化されました。しかし残念なことに、彼女がパハン州のスルタンと結婚し引退した後、スルタンが彼女主演のオバケ映画の封印を望んだために、キャセイ・クリス社長のホー・アロクはフィルムを破棄、現在フィルムは完全な形では残っていないそうです。元々目に見えない霊的存在だったポンティアナックが彼女主演の映画によって視覚的存在として多くの人に認知されたのも束の間、フィルムが失われたことでポンティアナックは幻の存在に再び戻ったと言えるのかもしれません。

女優時代のマリア・メナード。現在86歳、スルタン妃として存命。
シリーズ第3作『ポンティアナックの呪い』(吸血人妖)中国語広告。右から読みます。
 これらの映画の粗筋紹介は割愛しますが、5060年代に製作された作品は当時の怪奇映画の常として、女妖怪が伝統的村落共同体を危機に陥れるものの、最終的にオバケは退治され共同体の秩序は回復される(ただしいつか怪物が復活することも暗示される)物語とまとめることが可能でしょう。一方、70年代から90年代にかけての急速な近代化と都市化の進展は怪奇映画にも影響を与え、かつての物語の型が観客には受容されなくなりました。具体的には、フェミニズムやメタ物語的な批評的視点が加わり、あるいはクンティラナックという超自然的存在を通して女性の自己同一性が問われる作品の出現です。夜な夜な男性たちを襲う恐ろしい女妖怪は一方で我が子を盲目的に愛する母親でもあり、怪奇映画というジャンルを通して母娘のメロドラマが語られていたのが旧作群であるとすれば、今世紀以降に製作された作品のメッセージは様々ながら、物語の女性たちが主体的に行動し、時に女妖怪に化けるように見えて実は多重人格の持ち主かもしれないと観客に錯覚を起こさせる、あるいは「信用できない語り手」によって観客を宙吊りの状態にする、一筋縄ではいかない作品が多い傾向が見られます。妊娠した女性に限らず全ての女性はクンティラナックという妖怪になる可能性があり、その怒りを完全に抑えることはイスラム導師を含め誰にもできない、そして女性と女妖怪は時として互換性を持ち、人間と異形のものという境界そのものを無効にしてしまう。これこそ怪奇映画のもっとも新しい主題であり、クンティラナックという女妖怪の最新モードと言えるでしょう。
 
奇しくも先日の米アカデミー賞で主要4部門を制したのは鬼才ギレルモ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』でした。モチーフは『美女と野獣』のように見えて、実のところオリジナルは1954年ハリウッド製怪奇映画『大アマゾンの半魚人』。技術系部門の賞を除けばモンスターものやSF作品には極めて冷淡だったアカデミー賞の歴史において、『シェイプ・オブ・ウォーター』の受賞は画期的でした。映画内で女性主人公は文字通り境界を越え半魚人と一体化するのですが、実はこうした人間と異形のものの差異を無効化する視点は、インドネシアに限らず日本を含めたアジアの伝統的な物語の中にも見出されるものです。壁を築き境界を高くしようとする政治的動きは今世界各地で散見されますが、それに対する文化的カウンターもあちこちで聞こえてきます。いずれクンティラナックを主人公とした映画が権威ある映画祭の場で顕彰される日はそう遠くないのではないでしょうか。
  
  さて、最後は20172月に地元紙で話題になった以下の記事でこの稿をしめたいと思います。

 先述した西カリマンタンの州都ポンティアナックに女妖怪の巨大な彫像を建てる構想が観光局長の口から語られたとの内容です。マレーシアの都市クチンに猫の像が、シンガポールにマーライオンの像が、それぞれ存在することがヒントになったようで、街のシンボル及び観光名所としてカプアス河とランダック河が合流する地点に高さ100m(!)のポンティアナック像建設を考えているとのこと。あまりの荒唐無稽さに住民からは反対の声も出ているそうで、実現させるには多くのハードルが予想されますが、巨大オバケ像を使った町おこしというのはかなりユニークであることは間違いありません。はじめに紹介したクンティラナックに交通違反切符をきる警察官同様、恐ろしい妖怪ですらこうして手なずけて馴化させてしまうインドネシア人の想像力には脱帽です。

 さて、これまで三回続いたオバケの話は一応ここまでとし、次回からは先ごろ発売された大部の論文集『東南アジアのポピュラーカルチャー』を元本に、さらにディープな大衆文化を紹介していきたいと思います。それではまた次回!

<参考文献>
四方田犬彦 『怪奇映画天国アジア』 白水社 2009
 Walter William Skeat, Malay Magic  Being an introduction to the folklore and popular religion of the Malay Peninsula, 1900
アブドゥッラー著 中原道子訳『アブドゥッラー物語 あるマレー人の自伝』平凡社東洋文庫 1980




2018年4月2日月曜日

インドネシア語技能検定試験 B級落ちた...

2月に受けたインドネシア語技能検定試験B級二次試験の結果が届いた。予想通り、不合格。


全質問5問中、まともに答えられたのは3問だったから想定の範囲内。特に2問目の回答は酷くて、完全に頭の中が真っ白になりました。駄目だこりゃ...

今回のB級合格率が約7%なので、あんまり落ち込む必要はないのかもしれませんが、16年間住んでいてこの結果は恥ずかしいし、ともかく悔しいので、今年7月の第53回試験でリベンジすること決めました。

インドネシア語技能検定試験 受検データ

まじめに机に向かって基礎からやり直そうと思います。

2018年3月4日日曜日

「怪奇映画の女王」スザンナがスクリーンに蘇る時


私がインドネシアについて知っている二、三の事柄
6回 「怪奇映画の女王」スザンナがスクリーンに蘇る時

前回は昨年大ヒットした怪奇映画『悪魔の奴隷』(原題Pengabdi Setan)について語りました。反イスラーム的な内容の古風なスタイルのオバケ話が何故今のインドネシアで観客動員数が400万人を越えるほど大ヒットするのか、私なりに考えた仮説を提示してみましたが、実のところよくわからないなあというのが正直なところです。ただ、私にとってはこの「わからなさ」がインドネシアに長年住んでいて面白いと感じる部分でもあります。そんなわけで、前回参考文献として挙げた『怪奇映画天国アジア』を今回も参照して、インドネシアにおける怪奇映画の概略と、その際には必ず言及される女優スザンナ(1942年~2008年)について、今回は語ってみたいと思います。


表紙はタイ映画『幽霊の家』ポスター

インドネシアの地で劇映画が初めて製作上映されたのは1926年の無声映画『ルトゥン・カサルン』Lutung Kasarung 、西ジャワの民話の映画化でした。当時はまだオランダ植民地時代だったので、監督はオランダ人ヒューヘルドルプ、撮影はドイツ人クルーゲル、主演はバンドゥン県知事の子供。その後、既にアジアで映画先進国だった中国大陸からの映画人たちが到来し、中国の物語を映画化、その中には西遊記の猪八戒が主人公のものや、日本でも有名な白蛇伝がありました。これらは怪奇映画と呼べる内容ではないものの、現実の人間社会を活写したのではないファンタジーを扱っているため、そのさきがけと見なすことも可能なようです。

インドネシア独立後、映画産業は活況を呈しますが、幽霊を扱った作品はいくつかあったもののその多くは喜劇がほとんどだったらしく、本格的な怪奇映画の登場は映画産業が再び活性化する70年代を待たねばなりませんでした。1971年に至り、本格的怪奇映画『墓場での出産』が公開されます。主演は当時29歳のスザンナ。原作は70年代インドネシアで大ヒットしたアクション漫画『幽霊洞窟の盲目剣士』 Si buta dari gua hantu の作者ガネス・TH による漫画。脚本は後に大監督となるシュマンジャヤ。(ガネス・TH とシュマンジャヤについてはいずれ別項で論じる予定)映画全体の雰囲気としてはエドガー・アラン・ポーのゴシック小説を連想させる内容となっています。


映画『墓場での出産』Beranak dalam kubur ポスター

 この映画以降、スザンナは恋愛ドラマにも出演するものの、主に怪奇映画においては欠かせない女優として、文字通り怪奇映画の女王の座へと上っていきます。代表作としては『スンデル・ボロン』Sundel Bolong, 『黒魔術の女王』Ratu Ilmu Hitam, 『ニ・ブロロン』Nyi Blorong, 『サンテット』Santet など。



1963年、21歳当時のスザンナ
 
スザンナがどのようにして怪奇映画の女王と呼ばれるようになったのか、その背景と人気の秘密についてじっくり語ることは、数本の映画しか見ていない私にはやや荷が重いのですが、いくつか気づいた点を指摘しておきたいと思います。

まず第一に、彼女の出自が本名のSuzzanna Martha Frederika van Oschから分かるとおり、混血であったこと。両親共に混血だったので、彼女はオランダ、ドイツ、ジャワ、マナドの血を引いていました。先述したようにインドネシア映画史とはその黎明期から様々な民族や出自を持った人たちが作り上げてきた歴史であり、内容を含めて混血性こそがインドネシア映画の核ではないかと私は思っています。怪奇映画はその通俗性からインテリや外国人からは蔑まれ、まともに論じられてこなかったのですが、混血性をキーワードとして再検討するならば、スザンナこそはインドネシア映画のまごうことなき本流をゆく女優と位置づけることも可能でしょう。彼女が全盛期の映画でたびたび見せる、相手を射抜くような神秘的な眼差しが印象的です。

第二に、彼女の名声が怪奇映画の女王として定着したのは既に40歳を超えた80年代だったこと。子役として「インドネシア映画の父」ウスマル・イスマイルの『血と祈り』で映画デビューし、60年代には数本の映画で主演女優を務め、歌手としてアルバムを出したりもしましたが、それほどの人気は得られませんでした。遅咲きの大スターだったということです。

第三に、彼女が主演した怪奇映画のほとんどがモダンな都市ではなく伝統的な農村部や地方を舞台としていたこと。おどろおどろしい呪術やイスラーム到来以前の神話や民話が生きる伝統的な共同体において、彼女は幽霊や南海の女神の娘などを繰り返し演じてきました。

第四に、彼女がスクリーンで見せる妖艶さが実生活でも同様であると観客には信じられたこと。具体的には、彼女がいくつかの映画の中で見せる呪術的行為を実生活でも実践しているので、40代を過ぎても美しさを保っていると噂されたことです。映画内世界と現実の出来事が渾然一体となることで俳優の人気が上がることは珍しくありませんが、実際に呪術が存在し広く信じられているインドネシアにおいては単なるスキャンダルを超えた次元のように思えます。 

第五に、強権的な軍事独裁スハルト政権全盛期に彼女が出演した怪奇映画の妖花が咲き乱れたこと。前掲書『怪奇映画天国アジア』著者の四方田犬彦さんは、共産主義国家とイスラーム世界には怪奇映画はジャンルとして存在しない、それは世界を統一する原理がある地域や国においては幽霊や妖怪などという魑魅魍魎(ちみもうりょう)は存在が許されないためであると繰り返し述べています。ただしインドネシアは重要な例外で、なぜこの国でこれほど怪奇映画が製作されるかと言えば、外来宗教であるイスラーム到来以前の原始宗教や精霊信仰が根強く残っていることが背景にあると解説しています。

 そして、ここからは私の解釈となりますが、強権的で検閲も厳しかったスハルト政権下で何故怪奇映画のような荒唐無稽で非合理的な物語が許されしかも人気があったのか、それは最終的には秩序回復のハッピーエンドだったからと私は考えています。恐ろしい幽霊や怪物となったスザンナが自分を殺した男たちに復讐し、さらに暴れようとするも、イスラーム導師や自分よりも力の強い術者によって説伏され、混乱していた共同体は秩序は取り戻す。彼女が主演した怪奇映画の要約とはこのようなものです。

 これは旧体制と後に呼ばれたスカルノ政権時代の政治的経済的混乱を収拾し、その原因とされた共産主義を徹底的に弾圧し、秩序維持を第一としたスハルト政権のあり方と相似しています。混乱は必ず収まり、秩序は回復される、これがスハルト政権時代の怪奇ものに限らないインドネシア映画の基調でした。

 よって、スハルト政権崩壊後の今に続く改革時代の怪奇映画においては、共同体の混乱は解決されずハッピーエンドとならないことが常態となりました。もしスザンナが今も存命であれば、80年代に製作された怪奇映画以上の荒唐無稽ぶりをスクリーンで見せていたのではないかと想像されます。

最後に、彼女の代表作『スンデル・ボロン』 Sundel Bolong の有名な場面を以下に引用しておきます。日本の怪談を連想させる、恐怖と笑いが渾然となった名場面ではないかと思いますが、如何でしょうか?



サテ200串(!)を一気食いするスザンナ、その正体は...
 

 次回はオバケ話の続きか、あるいは荒唐無稽なジャンルとして繋がりのあるシラット小説やその映画化について語ってみたいと思います。それではまた来月!

<参考文献及びウェッブサイト>
四方田犬彦 『怪奇映画天国アジア』 白水社 2009
国際交流基金アジアセンター発行『カラフル!インドネシア2』パンフレット 2017
filmindonesia.co.id   ( インドネシア映画データベースサイト)