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2018年12月20日木曜日

古本「蘭印生活二十年」 2008年4月29日30日のMIXI日記転載

10年前の日記を転載。この古本はかなり面白かったのだけれど、ジャカルタへ引っ越して誰かに貸した後、行方不明になってしまった。どなたかお持ちの方は返していただきたく。
日記の文面は変更なし、ただし、本からの引用箇所は読みやすさを考慮して斜体とした。画像は小さすぎるがMIXIなのでこんなものです。




昨晩、かみさんは夜行バスでバンダアチェへ出発した。私に愛想をつかして...ではなく、津波遺児の甥と姪の財産相続に関する用事。一応家裁での審判があるとかで、以前から気をもんでいた。早く解決しますように。

さて、かみさん不在で暇をもてあましている(ゴメン)ので、前回の続きで、古本の「蘭印生活二十年」について書いてみよう。

まず基本データについて。発行日は昭和16年4月10日、発行元は大日本雄弁会講談社、定価1円60銭。奥付と同社の既刊本紹介頁を眺めるだけでも面白いが、とりわけ時代を感じさせるのが、送料の項目。「内地十銭」、そしてその左横には「満、支、鮮、台、樺、南 十二銭」と書かれている。まさに当時の日本が帝国であったことをこの古書は教えてくれる。ところで、これらの価格は現在の貨幣価値でいくらくらいなのだろうか?

また、当時皇紀と元号の使い分けはどうやっていたのか、気になる。著者の前書きには「皇紀二千六百一年春」とあるが、奥付は昭和。特に決まっていたわけではないのかもしれない。ちなみに、私は天皇制支持者ではないが、ころころ変わる元号よりは皇紀の方が使いやすいだろうなあと思っている。いわゆる「暦」などというものは、地域や時代で異なるのが当たり前なのだが、汎用性と実用性もバカにはできない。考古学者はせっせと研究を進めて、早いところ「ネアンデルタール暦」を確定して欲しいものだ。

著者の和田民治は自身のことを「二十余年の長い間、ジャバに於いて、椰子とカポック綿を栽培する農園の経営を担当していたもの」と紹介しており、「その間、あまり人の行かないニューギニヤ方面にも、前後三回の視察旅行をした」と述べている。

本書は四編から構成されている。ジャバ編、農業編、猛獣狩編、ニューギニヤ編、そして補足として「南方開拓に進む人々の為に」という項が最後に追加されている。

(この項続く)

さて、読みどころ満載、突っ込みどころ満載な本書から何箇所か引用してみよう。(かなづかいや漢字表記や段落は読みやすいように一部改めている)

まずはジャバ編の出だしのあたり。

・・・が、自然の恵みに慣れ、その懐に眠っている熱帯の土人は、衣食住の心配はごく少なくてすむ。裸でも暮らせる。野山に果物は枝もたわわに熟している。雨風をしのぐに足りるだけの小屋で充分である。生活苦の無いところに向上発展はない。彼等は、遊惰におちいりやすい。しかも、一方では、その地方の無限の資源に目をつけた白人のために、圧迫され、搾取されて、最低限の生活で満足しなければならない状態にある。こうした土人を白人の手から解放し、彼等の文化を向上させ、生活を豊かにしてやることが、吾吾日本人のつとめなのではあるまいか。大東亜共栄圏の大理想なのではあるまいか。私はそんなことを考えながら庭をそぞろ歩いていた。と、一人の土人苦力が近づいて、「旦那(トゥアン)、お早うごぜえます」と、ニコニコ顔で挨拶した。その人なつこい顔を見ると、私は故郷のどこかで見たような人のような気がしてたまらない。土人の中には、日本人に実によく似た顔をしたものがいるのだ。


こうした「南方楽園説」はいまだに日本で信じられているのでしょうか。当時としてはこれが常識だったわけで、そうでなければ「冒険ダン吉」や「怪傑ハリマオ」が生まれるはずもないのですが、まあ二十年も蘭印に住んでいてこの程度の認識とはねえ...しかも後半部は手前勝手な「大東亜共栄圏の理想」。「土人」より「支那人」の方がよっぽど日本人に似ていると思いますw

意地悪コメントはこのくらいにして、次はジャバ人の服飾について。


男は皆、頭にカパラカインといふ、一米四方位の、褐色と藍色などで模様を染め出したジャバ更紗を巻く。これを二つに折って三角形とし、その頂点を額にあて、三角形の底辺を高等部にあて、両端を持って左右から頭部をまるく包み、両端を後に回してぼんのくぼで結ぶ。(中略)これは帽子ではないから、屋内でも冠っているし、来客があれば、たとえ着物は着なくとも、これだけは必ず巻いて出る。上半身の裸体は失礼にならないが、頭布なしでは非常な失礼とされている。外出の時は、このままのこともあるが、その上に、更に減るマット、パナマ帽、中折帽などをかぶる。農夫などは、竹製の帽子、笠をかぶる。吾吾が見ると、二重の帽子のようでおかしい。(中略)近頃、土人もスマートななりをしたがって、靴やズボンを着けるが、土人はいかなる場合にも、白人と同じ服装をすることは禁ぜられている。つまり、ズボンをはけば頭布をまかねばならず、頭布をまかない場合は、ズボンのかわりに腰巻を着けなければならない規則である。(中略)どこの国へ行っても、女は見目形に苦労する。土人の娘も、年頃になると、パンゴールといて、前歯を鑢で削って歯並をそろえる。トツカンパンゴールという専門の職人が村々を廻ってっクルと、五六十セント払って手術を受ける。が、これが実に凄い荒療治で、釘抜きみたいなもので門歯をバキバキとかきとり、その上を鑢でガリガリ削っては先をそろえる。見ていても痛そうだが、美人になりたい一念はおそろしい。涙をボロボロこぼしながら、がまんしている。時には、脳貧血を起こして卒倒する者もある。なまやさしい美顔術ではないのだ。


カパラカイン(クパラカイン)はもはや儀式の時にしか見なくなりましたが、それほど重要なアイテムとは知りませんでした。なるほど。また、女性の「美」にかける情熱は時代を超えるようですw続けて食物について。

土人の主食物は米であるが、中以下のものはこれに玉蜀黍をまぜる。玉蜀黍の実に水をかけて臼でつき、皮を除き、再び水をかけて強くつくと日本のひき割り麦のようになる。それを米にまぜて炊くのである。非常に美味で、米よりも力がつくというので、労働者は好んで食べる。(中略)ジャバ料理の特徴は、椰子の実の汁と唐辛子及びタラシーという味付料を用いることである。(中略)貧民はタピオカ芋を食べる。土人は、これを茹でて食べたり、蒸して椰子の実のしぼりかすとまぜついて餅のようにして食べる。私たちはこれでキントンをつくるが、栗よりもうまい。

最近は食料価格が高騰しているので、ジャワの農村でトウモロコ混ぜご飯が復活しているかもしれません。タピオカ芋(キャッサバ、シンコン)のキントン、美味そうですw

続きはまた明日。

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